企業価値増大に着目したM&Aの遂行 ‐新たなPwC Deal Value Architectの手法‐

PwCアドバイザリー合同会社 パートナー 公認会計士 

吉田 あかね

2009年よりPwCにおいて、日本及び海外クライアントのためにクロスボーダーM&Aに関するPMI業務やJV設立支援に従事。また、事業譲受に関する買収後のグループ機能立上げ支援や、統合戦略立案からオペレーションの観点からのクロージングの支援策定に従事。更にセルサイド支援として、事業分離から売却戦略立案、交渉を支援。

企業や事業の売買案件、いわゆるM&A取引は活発に実施されている中で、M&Aにより価値が失われてしまう案件も多く見受けられる。売り手側においては対象事業を想定よりも低価格で売却する事態や、買い手側においては、いわゆる高値つかみの結果、M&Aから数年を待たずに減損損失を計上するケースである。M&Aによる価値毀きそん損を防止し、企業価値向上に向けて真に有益な手段として実行するために、PwCが新たに開発した「Deal Value Architect」のアプローチを紹介する。

買収側・売却側が抱えるM&Aの課題

M&A取引の取引価格は対象事業の事業計画をベースに形成されている※1ことから、買い手は買収価格の減損処理※2を避けるために事業計画の下振れリスクを管理する必要がある。ここ数年、PMI(Post Merger Integration:買収後の経営統合プロセス)が重要視され始めているのはこのためである。

しかし、案件の検討段階(プレディール※3)や実際に案件を実行する段階(ディールの実行段階)においては、事業デューデリジェンスの実施や将来事業計画のシミュレーションモデルの精緻化などが図られてきたものの、買収後の事業価値向上施策を踏まえた適切な買収価値を算出するプロセスは不足している。また、事業の売り手から買い手へ開示する事業計画において、価値を創出、または増加させる積極的施策が提示されることは少なく、現在の売り手の下で運営されている事業価値を上回る取引価格は形成されにくい。

こうした課題を克服すべく、対象事業を凝視し、取引後の事業のあるべき姿を描き、達成しうる価値創造の機会を取引価格に織り込むことを主眼としたPwCのアプローチが「Deal Value Architect」(DVA)である。

事業の価値を高めるDVAとは

DVAは、個々のディールの検討開始から取引完了、所有権移転後のバリューアップに至るM&Aのライフサイクルにおいて最大価値を創造するアプローチである。ここでは売り手が自社事業の一部を売却するケースをモデルとし※4、その売却プロセスに沿って概説する。

プレディール段階では、対象事業の価値を最大化するための施策を整理する。具体的には、現在の売り手グループからの離脱を想定した対象事業の戦略オプションを洗い出し、研究開発、調達、製造、販売、アフターセールス、物流などのサプライチェーンやバックオフィスを拠点別に見直して、当該事業にとって最適解となる運営モデルを設計する。これを「Target Operating Model」(TOM)という。

TOMは、販売チャネルの拡大や新たな技術の獲得などの施策の他、不採算製品の廃止や業務プロセス、物流網、人員、ITの最適化によるコストダウン、キャッシュフローの最大化を目指す運転資本の最適化、税務効率の適正化が企図された事業の運営モデルである。また、TOMの達成に向けた施策の価値を定量化し、現在の事業価値からTOM達成時の事業価値への変容を示したものがバリューブリッジ(図表)である。

DVAの最重要ツールと言えるTOMとバリューブリッジの意義は、その作成手法にある。切出し元企業と、対象事業の従事者、そして戦略・オペレーション・IT・財務・財務の外部専門家が一堂に会するワークショップにて作成されるため、実現可能性が高く、買い手に対して納得感のあるストーリーを定量化された価値とともに表現することができる。

ディールの実行段階では、買い手からのデューデリジェンスへの対応、取引条件交渉などがなされる。DVAのアプローチにおいてはプレディールで主要な準備が整っているため、売り手は想定外の売却価値の下落リスクを回避できる。一方、買い手と売買契約書の締結後は、クロージング※5までにTOMの達成に向けた施策の実施が重要である。DVAではその実行のプロジェクトマネジメントを重視し、遅延による価値毀損を防止する。

ポストディール段階では、いわゆるPMIの施策として新所有者の下でのガバナンスの仕組みを構築し、価値向上のための施策が実行される。DVAでは、価値が計画どおりのタイミングで実現することを重視するため、作業の中心が買い手に移った後も適切なプロジェクトマネジメントが肝要である。

DVAは一見、これまでのディールと大きく変わらないように見えるかもしれない。DVAがこれまでと異なるのは、価値の極大化にこだわることである。守秘性に十分に配慮しながらも必要な関係者を巻き込み、あるべき事業の姿を描き、増加する事業価値を定量化する。DVAのアプローチが、多くのM&A案件を成功に導くきっかけとなるよう願ってやまない。

バリューブリッジのイメージ

※1:理論的には、買い手が想定する事業計画をベースに生ずる将来キャッシュフローを、資本コストを割引率として現在価値を算出したNPV(Net Present Value:正味現在価値)が買収価値となる。M&Aの手法として入札方式がとられる場合などは、他の入札者との競争環境によって価格がつり上がる傾向があるため、買収価格が、当初買い手が想定していた事業計画をベースにした額より高く形成されるケースが見受けられる。

※2:M&Aで取得した有形固定資産やのれんの評価を切り下げ、減損損失を会計上で計上することをいう。

※3:M&Aの個別取引のことを総称してディールと呼ぶ。ここでは、案件の検討開始から売り手への買収意思表明までの段階を「プレディール」、デューデリジェンスの実行、取引条件交渉、売買取引契約書締結、対価の支払いまでを「ディールの実行段階」、対象事業の所有権移転以降の期間を「ポストディール」と呼ぶ。

※4:複数事業を運営する大企業における選択と集中の流れの中で、M&Aマーケットでは会社の株式を売却する取引に比較し、一部事業を切り出して売却するいわゆる「カーブアウト取引」が増加している。また、買い手の立場であっても、DVAのプロセスは同様に進めることが可能である。買い手の場合には売り手よりも情報が少ないが、デューデリジェンスを工夫し、TOMを綿密に設計の上、PMIを確実に実行することにより価値向上が可能である。

※5:売買契約書締結後、買い手による対価の支払いと交換で、対象資産の所有権が売り手から買い手に移転することをクロージングという。