
医彩―Leader's insight 第8回 病院長と語る病院経営への思い―小田原市立病院 川口竹男病院長―
経営改善を実現し、「改善を持続できる組織」に移行している小田原市立病院を事業管理者・病院長の立場で築き、リードしている川口竹男氏に、病院経営への思いを伺いました。
2022-08-08
医師や看護師などの医療従事者、最新の知見や技術を持つ研究者、医療政策に携わるプロフェッショナルなどを招き、その方のPassion、Transformation、Innovationに迫るシリーズ「医彩」。第9回は労働者健康安全機構 横浜労災病院救命救急センター センター長・救急災害医療部 部長であり、DMAT(災害派遣医療チーム)やJICA(国際協力機構)の国際緊急援助隊医療チーム・感染症チームで緊急医療支援に携わる中森知毅氏をお迎えしました。中森氏は2007年の中越沖地震災害支援を皮切りに、国内外の災害地域・紛争地域で医療支援に携わっていらっしゃいます。過酷な環境で人命救助にパッションを注ぐ中森氏の取り組みや、過去から現在の災害医療の進歩、さらに国際災害支援組織で日本人がプレゼンスを発揮するには何が必要なのかといったことまで、お話を伺いました。(本文敬称略)
労働者健康安全機構 横浜労災病院
救命救急センター センター長・救急災害医療部 部長
中森 知毅氏
PwCコンサルティング合同会社
ディレクター 増井 郷介
PwCコンサルティング合同会社
シニアアソシエイト 森野 杏子(医師)
※所属法人名や肩書き、各自の在籍状況については掲載当時の情報です。
増井:最初に中森先生が災害医療に携わるようになったきっかけを教えてください。
中森氏:私は山口大学医学部を卒業後に同大学院で生理学を研究していましたが、縁があって横浜労災病院の神経内科で10年間“修行”をしました。2004年には同科の副部長になったものの、救急医療に携わりたいという思いが強くなり、救急部に移籍しました。
救急医を目指した理由は、「プリミティブな医療」に携わりたかったからです。神経内科では脳卒中やパーキンソン病、脳炎髄膜炎といった、人間の知恵と技では発症前の状態に戻すことが難しい疾患を多く扱います。もちろんやりがいはありましたが、たとえば怪我をした患者さんの治療など、人間の知恵と技で戦える医療=プリミティブな医療がしたいと考えました。
増井:救急部に移籍して初めて災害支援活動に参加されたのが、2007年7月に発生した中越沖地震だと伺っています。
中森氏:はい、その通りです。当時勤務していた横浜労災病院は災害拠点病院に指定されており、充実した医療設備を備えた災害支援バスを有していました。しかし、そのバスは一度も被災地に赴いたことがなかったのです。そのバスをどうしても稼動させたくて、被災地に向かいました。この地震は、後に説明するDMAT(災害派遣医療チーム)が本格的に活動した初めての災害ですが、被災地に集まったDMATや赤十字の医療チームの皆さんから、災害医療チームが備えるべき装備について教わり、自分たちがいかに災害のことを知らないのか、ということを思い知らされました。災害拠点病院に勤める身としては、「これではいかん」と大いに反省し、災害医療の勉強を始めたのです。その中で、阪神淡路大震災が日本の災害医療のターニングポイントとなっていることを知りました。
森野:阪神淡路大震災は、どのような点でターニングポイントとなったのでしょうか。
中森氏:それまで、自然災害に対して比較的受け身であった日本人が、初めて積極的に災害対応をすべき、と認識したのが、阪神淡路大震災だとされています。阪神淡路大震災はマグニチュード7.3で、死亡した方は約6,400名でした。明け方に発生し、木造住宅の密集地付近が震源地であったことから、圧死と火災で亡くなった方が大勢いらっしゃっいました。ただし亡くなった方の死因を検証すると、普段の医療を受けていれば助かったという「防ぎ得た災害死」が500名ほど存在した可能性があったのですね。その反省から設立されたのが、「災害拠点病院(制度)」「DMAT」「広域搬送計画」「EMIS(広域災害救急医療情報システム)」です。
簡単に説明すると、災害拠点病院は、災害時にその地域の患者さんを受け入れたり医療チームが災害現場に向かう際の拠点になったりする病院です。DMATとは、災害時に現場に行って医療を提供するチームを指します。広域搬送計画は、災害地域の医療施設で対応できない際に、自衛隊機で広域の医療施設に搬送する計画を立案するものです。EMISは災害時に「どの医療機関にどのくらい患者さんがいて、何が足りないのか、何が困っているのか」といった情報を収集し共有するシステムです。
私は2011年3月に発生した東日本大震災において、DMATの一員として被災地に赴きました。この震災では、発災超急性期に、多くのDMATが被災地に集まることができた、という点では大きな進歩でした。しかし、新たな課題も浮き彫りになりました。DMATは窮地での急性期医療を行うという認識で集まりましたが、津波の被害で多くの方が既に亡くなってしまっていて、DMATが当時思い描いていたような急性期医療の対象者が少なかったのです。一方で慢性期医療の担い手がいなくなったために平素の医療の継続が必要な方がたくさん取り残されてしまいました。
この反省を踏まえ、この震災の後からDMATは「DMATが果たすべき役割」の認識を変えることになりました。瓦礫の中に医療を必要としている人はいなくても、被災地には医療に派生する仕事がたくさんあります。災害急性期の仕事であれば「それはDMATの仕事ではない」とは決して言ってはならない、「災害時に必要とされることは何でも行う」というように変わったのです。
森野:現場での体験から役割を見直したのですね。
中森氏:そうです。もう1つ、東日本大震災で浮かび上がった課題は、「いかに間接的災害関連死を防止するか」です。
災害関連死には「直接的災害関連死」と「間接的災害関連死」があります。東日本大震災の場合、前者は建物倒壊等による圧死や津波による溺死で、後者は長期の避難所生活などの生活環境の変化に伴う健康被害による死亡です。東日本大震災では15,895名の方が直接的災害関連死で亡くなりましたが、間接的災害関連死で亡くなった方も3,676名いらっしゃいました。
増井:間接的災害関連死を防ぐためにはどのような取り組みが行われてきたのでしょうか。
中森氏:まずは、東日本大震災時の振り返り、その後の避難所の様子などを丁寧に検証し、間接的災害関連死とはどういうものか、またどのようなことに注意すべきなのか、といったことをDMATの中で周知していくような試みがなされました。
それまでの災害医療の取り組みは、いかに医療を被災地に早く届けるか、という点に集中していました。しかし、間接的災害関連死を防ぐためには、避難生活でいかに健康を維持するかという保健や福祉の支援が重要であることが認識されだしたのです。
しかし、どのように保健や福祉の支援体制を急性期から整えるのか、ということが具体的に試みられたのは2016年の熊本地震でした。
この時の支援には、東日本大震災のときよりもはるかに多い数の医療チームが集まりました。DMATのみならずさまざまなNGOの医療チームや、国際赤十字のチーム、国境なき医師団など、国際的な医療チームも超急性期から集結し、また地元の医療体制も比較的早期から立ち直り始めました。しかし一方で、保健・福祉の支援については依然として手薄な状態が続いていました。
また保健や福祉の支援は長期的に必要な事態でしたので、地元の医療も立ち直り始めたことから比較的潤沢となった医療チームが、人手が足りなくて困っている保健や福祉の仕事を助ければよいのではないか、また地域ごとに異なる復興にならないよう、被災地全体が一体となって復興していけるように、医療と保健と福祉の支援者と受援者が一堂に会して、課題や問題点を話し合える会議体が必要だと考えたのです。それが阿蘇地区保健医療復興会議(ADRO:ASO Disaster Recovery Organization)という会議体です。
ADROはトップを阿蘇保健所長とし、会議体事務局を支援者(DMAT等のメンバー)が行い、ADRO会議には、DMATや日赤などの医療チームや自衛隊などその地域に入る全ての保健医療分野の支援者と、地元の医師会・歯科医師会・薬剤師会の方々や地元の保健師、看護師などの受援者、さらに消防・警察の方などにも参加していただきました。そして、困っている課題を持ち寄り、どのように解決できるかについて1日2回相談を始めたのです。
たとえば、保健師さんが「特定の避難所で下痢が発生している。トイレの衛生状況が原因ではないか」と報告すると、会議終了後すぐにみんなでその避難所を確認し、夜のうちに対策を考えました。その結果、感染性胃腸炎の蔓延を防止できたということもありました。会議体としての窓口をADROに一本化したことで、組織として非常に効率的に活動できたと思います。
増井:情報共有を起点にすぐに施策を実行するというベストプラクティスですね。ADROを踏まえて、さらに見えてきた課題はありましたか。
中森氏:ありました。それは情報管理のあり方です。
間接的災害関連死を防ぐためには、災害地域で生活している方々の健康状態を正確に把握し、医療・保健・福祉に携わる人が共有して保健医療活動を行う必要があります。しかし、当時はさまざまな重要な情報が集まっても、それを整理して記録として残していくシステムがまだ充分ではありませんでした。
この災害時の情報整理には、まだまだ課題がありますが、一つその後非常に発展した情報管理ツールとして「J-SPEED(Japan Surveillance in Post Extreme Emergencies and Disasters)」があります。J-SPEEDは被災地でどのような症候や疾患群が問題となっているのかを集計する公衆衛生ツールです。
J-SPEEDの原型は、フィリピン国保健省とWHO(World Health Organization)が開発したSPEEDです。フィリピンは、2009年に巨大なサイクロンに3度襲われ、どの地域にどのような問題点が生じているのかを把握するためにSPEEDを開発したのです。これを日本でさらにブラッシュアップし、使いやすくしたものがJ-SPEEDです。
増井:J-SPEEDは保健医療活動にどのような変化をもたらしたのでしょうか。
中森氏:被災地や避難所での生活では、感染症の発生や、精神的な負担の増加、外傷治療チーム導入の必要性などに留意することが、間接的災害関連死を防いだり、避難所での生活の質を向上させたりするために、大変重要です。被災地で診療する医療チームが、このJ-SPEEDを記録し、地域ごとに集計していくことで、「明日、どのような支援を行うべきか」ということが見えてくるのです。避難所で呼吸器や消化器系の感染症が起きると、パンデミックとなる可能性が高く、一度パンデミックになると終息させることはかなり難しくなります。J-SPEEDではそのような危険性を事前に知ることができるのです。
また、「被災地支援をいつまで行うべきか」ということはいつも問題になりますが、J-SPEEDを記録することで、災害関連性の症候数が減ってくれば、地元の医療体制に戻すことを考慮すべき時期ではないか、と分かるのです。
森野:J-SPEEDという統一のカルテがあったからこそ、客観的な根拠として支援活動の必要性が分かるのですね。
中森氏:そうですね。平成30年7月豪雨では、保健、医療の面からJ-SPEEDは非常に注目を集めるようになりました。さらにJ-SPEEDのアプリ化も進み、急速に使われるようになりました。
中森氏:日本は災害大国として、国内で災害支援のノウハウが蓄積しています。私たちはこのノウハウは世界でも通用するものと考えていますが、言葉の問題や、交渉が得意ではない国民性などもあって、国際社会で日本がリーダーシップを執れるところまではなかなか来ていません。しかしこのJ-SPEEDは、WHOでもその有用性が認められ、「MDS(Minimum Data Set)」という名前を担い、国際標準の災害医療ツールとして採用されるようになりました。
森野:MDSはウクライナ支援でも活用されているのですよね。
中森氏:はい。ウクライナから避難している方々の健康状態把握にMDSを活用する方針をWHOが示しています。
増井:日本が発展させたJ-SPEEDがMDSと名前を変えて国際災害支援に役立っているというのは嬉しいです。国際社会で日本がリーダーシップを発揮していくために克服すべき課題は何でしょうか。
中森氏:最も分かりやすい課題は英語です。英語力がなければ議論の土俵にすら上がれません。そのうえで次の課題は、世界の宗教観や文化、特にWHOの本部がある欧州の文化やキリスト教的な価値観を理解する力です。
海外から医療支援に参加しても、支援チームが被災地に滞在するのは一時的です。“外部の人間”は、急性期の医療体制を助け、いずれ被災国が自分の力だけで活動できるように支援することが責務です。それが復興支援です。そのためにはその土地の文化や考え方を理解したうえで相手とコミュニケーションをすることが重要です。支援する側が「これが正しい復興のやり方だから」と一方的に考えを押しつけてはなりません。さらに言えば、他の地域で成功したからといって、別の地域で同じ支援の方法が成功するとはかぎりません。そうしたことを理解し、現地に受け入れてもらえるようなアプローチを考えることができる人が、国際社会においてリーダーシップを発揮できる人材だと思います。
増井:お話を伺うと、英語に加えて、文化等の理解も必要ということで、かなりハイスペックなスキルが要求されると思います。そうした人材の育成や発掘に向けて何をすべきでしょうか。
中森氏:英語は本人の努力ですが、コミュニケーション力や現場の対応力は実地教育に勝るものはないと考えています。国際災害医療の現場に数多く参加し,コーディネーションを学ぶ機会をたくさん持つ必要があると思います。
増井:実地教育の大切さは私たちの業界でも同様です。次世代リーダーの育成手段としてトップコンサルタントと一緒にクライアント先に伺い、見取り稽古のように仕事を覚えてもらうアプローチが実践されています。
最後に先生からご覧になって、医療領域の支援を行っているコンサルタントに対して期待することがありましたら、ぜひ聞かせてください。
中森氏:私を含め医療現場の人たちは、リーダー論や組織論を習う機会がほとんどありません。さらに言えば、デジタルで情報を管理したり、その結果を活用して物事を前に進めていったりするようなトレーニングも受けていません。医療現場の“外側”にいるコンサルタントの方々には、そうした部分で私たちを是非サポートしていただきたいと思います。
たとえば、どのようなデータをデジタル化すれば、どのように活用していけるのか、どのようにデジタル化を進めていけばよいのか、医療ITの最新動向や事例を教えていただくことはとても貴重です。
増井:私たちも、先生たちの立場や考え方を理解しながら、ご提案や支援をしていきたいと考えています。自分たちの支援が災害医療の一助になるのであれば、こんなに嬉しいことはありません。本日はありがとうございました。
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