人々のウェルビーイングに貢献する技術―脳科学の新展開

2021-03-08

脳科学に関連する市場として、例えば、世界の精神神経薬の市場は3兆円~4兆円規模で推移しています*1。さらに、脳計測に使われる主要装置であるMRI市場は現在約5,500億円であり、毎年約6%の成長が見込まれ、2027年には8,500億円に達すると予想されています*2

これまでは主に医療行為として治療や診断に活用されてきた脳科学ですが、現在、「脳の健康」や「脳のエンハンスメント」、「ブレイン・マシン・インターフェース(以下、BMI)」など、非医療分野における新しい市場が広がりつつあります。大げさでなく、脳科学があらゆる人々の幸福(ウェルビーイング)を創出できる可能性が広がってきていると言えます。新たな価値を生み出す脳科学の研究開発の今や、産業化に向けた課題を解説します。

1.脳科学の産業エコシステムの萌芽

これまで10年以上にわたって、複数の国々が国家プロジェクトとして毎年数十億円から数百億円をかけて、脳科学に対する研究投資を行ってきました。現在、その成果が、多くの脳関連のスタートアップ企業の創業として現れつつあります。

実際、世界の脳関連のスタートアップの上位200社だけで、約7,000億円の投資がなされています*3。その中では、脳のモニタリングや脳機能の改善・強化、新しいインターフェースの提供など、多様なサービスが試行されています(図1)。例えば、脳のモニタリングサービスとしては、磁気共鳴画像(MRI)や陽電子放射断層撮影(PET)などの高解像度の脳画像を用いた認知症やうつ病の診断支援だけでなく、発症予測などにも複数のスタートアップ企業が取り組んでいます。さらに人工知能(AI)を用いることで、より精度の高い予測を実現する研究開発競争が加速しています。一方、高価な装置であるMRIを用いることなく、心拍や行動、視線などから精神疾患を予測する取り組みも広がってきており、脳科学の裾野は大きく広がってきています。

加えて、脳機能を改善・強化する試みも始まっています。具体的には、脳を直接刺激して認知機能の低下を改善する手法が開発されています。さらに、これをより簡便かつ広く利用できるよう、スマートフォンアプリの開発やスマートウォッチとの連携にも、数多くのスタートアップ企業が取り組んでいます。また、ニューロフィードバック技術(リアルタイムで自らの脳の状態をモニタリングしながら、よりよい脳状態をキープできるように促し、結果としてストレス低減や病気の予防を実現するもの)を用いた、より効果的な改善方法も開発されています。さらに、ゲームのコントローラーを用いたり、仮想現実(VR)の中で操作したりといったBMIの活用法を提供するスタートアップ企業も増えており、応用範囲は広がろうとしています。

このように、脳科学は産業化の萌芽の段階と言えます。今後、その市場を急速に拡大させていき、ITやロボットに続く、次なる大きな産業の一つになると筆者は考えています。

図1: 脳のスタートアップの類型と事例

2.産業になるための技術的課題

とはいえ、産業化に向けては、いくつかの技術的課題があります。1つは、脳を評価することの難しさが挙げられます。例えば、精神科医が認知症の診断を下す時、本当に認知症を患っているのか、実は別の理由で頭が冴えないのか、今もなお判断が非常に難しいのが実情です。このことは、技術革新著しいAIを使ったとしても、正解となるデータを準備できないことを意味しています。つまり、答えが正しいかが分からないので、AIアルゴリズムも正解を出すのが難しくなってしまいます。こうした状況を打破するために、業界共通の適切な評価基準が求められます。脳の健康領域については、その1つが日本発の国際標準規格であるBHQ(Brain Healthcare Quotient)と言えます*4

一方、MRIなど高価な医療機器を用いた高解像度の脳の画像解析を誰でも利用可能にするために必要な仕組みやデータが揃っていないことも、市場を拡大する上での技術的な課題と言えます。この課題を解決するために、高品質の脳データと簡易の脳計測や行動計測などのビッグデータを蓄積し、簡易計測から脳データを推定する仕組みが考えられます。例えば、標準的なBHQのような脳情報のモノサシとIoT(Internet of Things)デバイスを活用した大規模なデータ蓄積から、絶えず脳の状態を推定することも可能になるでしょう。この領域においては、「脳ドック」のような社会インフラと、高品質のデバイス開発を得意とするモノづくり企業が連携することによって、日本が世界をリードしていくことができる可能性が高いと言えます。

しかしながら、脳の状態を正確に評価し、誰もが自分の脳の状態を理解できるようになるだけでは、サービスは完結しません。そこから脳の改善や強化を実現することが最終的な価値となります。これを実現するためには、効果的かつ負担が少ない脳への介入方法の開発が必要であり、これこそ最後の技術的課題となります。1つは、世界でも有数の健康志向の高さで知られる日本人に対して、身体だけでなく脳にもよい商品を開発することが考えられます。前述の大規模データを通じて、身体によい食べ物の中から脳の改善・強化にもつながる食べ物を見つけ出すのも一案でしょう。さらに、体質改善や持病の治療を行うことで脳機能を活性化する新しいサービス開発も考えられるでしょう。

こうした課題を乗り越える上では、IT技術の活用が大きな役割を果たします。近年のロボティクス技術やVR・拡張現実(AR)の発達に伴って、コンピューターの画面に脳の状況を映し出すだけでなく、私たちの五感を刺激する分かりやすい方法で、脳や心の状態をフィードバックすることが可能になっています。身体全体をサポートしてくれるような外骨格のロボットや強い没入感を得られるヘッドマウントディスプレイなどは、脳機能の改善の有力な手段になるでしょう。こうした研究開発が発展すれば、世界でスマートシティの実現が進む中、便利で効率的なだけでない、人に優しく、脳を元気にする街を日本が世界に発信することも十分に可能でしょう。

3.産業化の前に横たわる2つの社会的な課題

とはいえ、産業化に向けた障壁は技術的な課題だけではありません。脳は全ての人間が持つ部位ゆえ、その研究開発は全ての人々に影響を及ぼすと言えます。そのことから、2つの社会的な課題が存在すると筆者は考えます。

1つ目は、社会に展開する上で必須となる脳情報の蓄積についてです。すでにオンライン産業では、個人情報保護が大きな課題となっています。テクノロジーの発達に応じて、脳情報の価値はさら向上します。これまで決して明らかにならなかった個人の思考や信条までをも明らかにしてしまうことが想定されるからです。このことから、個人情報をどのように管理し、活用するかは、倫理上ならびに法律上の大きな課題となり得ます。

2つ目は、社会的受容です。例えば医療分野においては、脳の疾患を診断し、治療する行為であれば誰もが納得するはずです。しかしながら、一部の人間が脳機能を強化するような取り組みには、多くの反対意見が出てくることが予想されます。これは「脳のエンハンスメント問題」と呼ばれ、各国政府が研究者を交えて議論を続けている状況になります*5

医療とエンハンスメントの中間的な位置付けとなる脳の健康についても、医療の延長と考えれば受容されるものの、エンハンスメントの入り口と捉えると、一定の規制が必要になるかもしれません。このように、脳の産業化を実現するには、技術面で解決すべき課題があるだけでなく、産学官が連携し、社会的なコンセンサスを得ながら進める必要があると言えます(図2)。

コロナ渦において、感染症対策の分野は大きな前進を果たしました。しかしながら、自殺者の増加や認知症患者への対応の難しさなど、新たな脳や心の問題が生み出されたのも事実です。「グレート・リセット」というキーワードが登場し、人々の幸福(ウェルビーイング)を中心とした社会経済システムへの転換の必要性が語られる昨今、心にまつわる社会課題の解決の重要性は増しています。脳科学のアプローチが、人々のウェルビーイングを実現する糸口を世界に提示する――。そんな日は、そう遠くないかもしれません。

図2: 脳の産業化に向けての技術的課題と社会的課題

執筆者

三治 信一朗

パートナー, PwCコンサルティング合同会社

Email

山川 義徳

ディレクター, PwCコンサルティング合同会社

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