ゲノム医療とPatient Centricity ―認定遺伝カウンセラーの立場から―「newsletter 第1回:先端技術とその落とし穴 ゲノム医療と倫理的・社会的課題」

Patient Centricityに資する取り組みとして以前のニュースレターでも一部ご説明させていただきましたが、患者さんの声を治験に取り組んでいく患者・市民参画(PPI: Patient Public Involvement)や、患者さんの治療アウトカムの向上をめざしたさまざまな取り組みが進んでいます。その1つの視点となるのが、個別化(パーソナライズ)です。患者さんのライフイベントや既往歴に応じた治療提供を支援することで、QoL(Quality of Life)の向上、例えば治療によって、身体面はもとより、心理的、社会的観点での寄与も含める考え方が広がってきています。
患者さん一人ひとりに合った治療を行うための一つの手段となるのがゲノム医療です。ゲノム医療とは、体の設計図であるゲノム情報を活用した検査や診断、遺伝子治療を含む治療です。ゲノム情報を疾患の治療や予防に活用する技術の開発、実装は進んでおり、期待が高まっています。一方で、ゲノム情報はその性質から、解析や利用にあたる倫理的・社会的な課題も指摘されています。
本ニュースレターでは、現在注目を集めるゲノム医療を進めるにあたり、倫理的・社会的課題を解決していく必要性を連載形式で解説します。初回は、ゲノム情報活用の広がりや、それにまつわる倫理的・社会的課題の基礎知識について紹介します。

遺伝学の基礎

ゲノム情報は体の設計図とも呼ばれ、その違いは一人ひとりの体の違いとなって現れます。この「違い」には個性と言えるようなものもあれば、病気に分類されるものもあります。例えば、ゲノム情報の違いはまぶたの形や目の色のような身体的特徴に影響すると言われますが、これは個性と呼べます。一方、ゲノム情報の違いで心臓の形が多くの人と異なり、それが心臓の機能を損なうものであれば、それは病気といえます。
また、ゲノム情報の違いは多様性を生み出しており、この多様性は生物集団の強さにつながります。全員がまったく同じゲノム情報、ひいては体質を持つ集団を考えてみましょう。彼らがその環境に適応していればその集団は繁栄しますが、ひとたび彼らにとって致命的な感染症が流行すればひとたまりもありません。逆に、遺伝的に多様な集団であれば、その感染症の流行で一部はダメージを受けますが、他の個体は生き残り、集団としては生存し続けることができます。ゲノム情報が一人ひとり違うことで、ヒトは長い間生命のバトンを引き継いできたと言えます。
このゲノム情報を調べることで、ヒトの身体を理解し、病気の治療や予防に役立てようとする動きが進んでいます。

ゲノム情報活用の広がり

ヒトの体を構成するゲノム情報の全貌であるヒトゲノムは、10年以上の期間を経て2003年に解析が完了しました。現在ではより安価により速くゲノム情報を解析する技術が進み、ゲノム情報とさまざまな疾患や体質との関係も明らかになりつつあり、多様な場面で遺伝に関する検査が行われています(図表1)。

図表1:ゲノム情報活用の広がり

1. Grand View Research, “Genome Sequencing Market Size & Share Report, 2023-2030、2. Grand View Research, “Genome Sequencing Market Size & Share Report, 2023-2030

臨床症状から遺伝性疾患が疑われる患者には、診断名を付けて治療につなげるために遺伝学的検査が行われます。また、年を重ねてから発症する遺伝性疾患には、症状が出る前にゲノム情報を調べ将来の発症を予測する発症前診断が可能なものもあります。
がんの分野では特にゲノム情報の活用が進んでいます。がん細胞やほかの正常細胞のゲノム情報から効果の高い薬剤の選択、患者のがんの発症リスクや発症しやすいがんの種類を調べ、がん検診に活用していくといった「がんゲノム医療」が行われています。
周産期領域では、妊娠中に胎児の状態を調べる出生前診断が行われています。日本でもっとも行われているのは新型出生前診断と呼ばれるもので、母体の血液に含まれる胎児のゲノム情報から、胎児が特定の疾患を持っているかを調べることができます。また、受精卵の細胞の一部を採取してゲノム情報を解析する着床前診断では、ゲノム情報の異常によって子宮に移植しても着床・妊娠継続が難しい受精卵を調べることで不妊治療に活用されています。
疾患の有無以外にも、体質などをゲノム情報から調べようとする試みが研究されています。市販の遺伝子検査であるDTC(Direct to Consumer)遺伝子検査も販売され、自宅でキットを用いて採取した唾液を検査機関に郵送し、ゲノム情報から導き出された身体に関するさまざまな情報を受け取ることのできるサービスも広がっています。

ゲノム情報の性質と倫理的・社会的課題

活用が進むゲノム情報ですが、医療で用いられる他の情報とは異なる「不変性、共有性、予見性、あいまい性」といった性質を持っています(図表2)。そして、不適切に扱われた場合には、検査を受けた人、その血縁者に社会的不利益がもたらされる可能性があります。そのため、ゲノム情報を明らかにすること、その情報を活用することには慎重さが求められます。

図表2:ゲノム情報の性質

日本医学会「医療における遺伝学的検査・診断に関するガイドライン」をもとにPwC作成

不変性とは、ゲノム情報が生涯変化しないという性質です。ある人が遺伝学的検査を10歳の時に受けても、90歳の時に受けても結果は変わりません。そして、生活習慣を変えたり治療を受けたりしても、基本的にゲノム情報は変化することがありません。つまり、遺伝学的検査を受けるということは、生涯その結果と向き合っていかなければいけないことを意味します。このことから、一般に未成年への遺伝学的検査はよほど緊急性がない限りは行われていません。
共有性とは、ゲノム情報は血縁者と共通する場合があるということです。ある人が遺伝学的検査を受け遺伝性疾患を持つと診断されると、同じ疾患を親や子、きょうだい、その他血縁者が共有する可能性があります。一人の人のゲノム情報を明らかにすることは、本人だけではなく、家族全体に影響を及ぼすことがあります。このことから、ゲノム医療では本人のみならず家族へのケアや診療、情報提供が行われます。
予見性とは、ゲノム情報によって将来の病気の発症や体の状態が明らかになる可能性があるということです。遺伝性疾患には、成人期以降に症状が出るものもあります。症状が出る前に遺伝学的検査を受けると、今は健康でも将来その病気にかかる、またはかかりやすいことが明らかになることがあります。すでに症状が出ている病気の診断とは異なり、今は健康に問題のない人が将来の病気を知ることになるため、その情報をどう活用していくのか、知ることのメリットが知らないでいることのデメリットを上回るのかを患者・医療者の間で話し合ったうえで検査を行います。
あいまい性とは遺伝学的検査の結果が絶対のものではないということです。先述したとおり、ゲノム情報の違いは必ずしも病気を意味するわけではありません。よって、どのようなゲノム情報が疾患を引き起こすのか、まだ分かっていない部分も多くあります。検査の結果ゲノム情報自体は明らかになったとしても、その情報の持つ意義が明らかにならなかったり、一度明らかになったと思われた意義が将来覆ったりすることもあります。
ゲノム情報は疾患の診断や治療に役立つ場合もありますが、扱い方によっては患者やその血縁者に不利益をもたらします。検査で遺伝性疾患が明らかになっても、治療法が未確立な場合は患者の心理的負担になるかもしれません。また、日本でもゲノム情報による差別を行ってはならないとの指針は示されているものの、就業や保険加入、結婚などさまざまな場面で影響が生じる可能性も否定できません。

まとめ

ゲノム情報を明らかにすることがさまざまな影響を及ぼすことがあります。医学的にメリットのある検査だったとしても、ゲノム情報を正しく理解し活用するための支援がなければ、検査はいたずらに不安をあおるものになってしまうかもしれません。そして、その影響は患者のみならず、家族にも影響します。
ゲノム情報の活用が進む中で、技術の発展だけでなく、倫理的・社会的課題の解決や、多くの人が技術の恩恵を受けるための支援や社会全体のリテラシー向上が求められています。患者や家族、社会全体への取り組みを進める中で、ゲノム情報のさらなる活用、そして、どんな遺伝的背景を持つ人も自分らしく生きられる社会を実現していく必要があります。次回は、このような複雑な状況における専門職「認定遺伝カウンセラー」の役割についてご紹介します。

執筆者

須田 真澄

シニアマネージャー, PwCコンサルティング合同会社

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工藤 美紗絵

アソシエイト, PwCコンサルティング合同会社

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ヘルスケア/医薬・ライフサイエンス ニュースレターをメール配信します。

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