ネイチャーポジティブに向けた自然クレジットの可能性

  • 2025-09-11

地球規模で進行する生物多様性の喪失は、人類の生活基盤や経済活動に深刻な影響を及ぼしています。この問題に対処するためには、莫大な資金を生物多様性の保全・回復活動に向けて投入する必要がありますが、現在、その資金は大幅に不足していると言われています。
このような状況下において、自然環境の価値を定量化し、保全活動への資金流入を促進する仕組みとして「生物多様性・自然クレジット」が注目を集めています。注目されている一方で批判も多いこの仕組みについて、本稿では、定義や概念、そして仕組みとしての現状の課題とそれをどう乗り越えていくべきかという将来の展望について考察します。

1 生物多様性保全と資金の現状

1.1 生物多様性保全と資金の問題
地球史上6度目の大量絶滅期とも言われる現在、生物多様性の喪失という課題は深刻化しています。2022年12月に生物多様性条約第15回締約国会議(CBD COP15)で策定された昆明・モントリオール世界生物多様性枠組(以下KMGBF)においては、生物多様性や生態系を保全するために、年間約7,000億米ドルが資金として不足しているという報告がされ、この資金ギャップを徐々に縮小していくという内容のゴールが設定されました(2050 年グローバルゴール:ゴールD)。

1.2 民間資金動員策としての生物多様性クレジット
この規模の資金ギャップを埋めるためには、公的資金だけでなく、民間資金も含めた資金動員が必要です。KMGBFにおいては、2030年までに達成を目指す23のターゲットの中で、生物多様性に有害なインセンティブを少なくとも年間5,000億米ドル削減し、生物多様性の保全と持続可能な利用のために有益なインセンティブを拡大すること(ターゲット18)が定められました。

加えて、国内、国際、公共および民間を含むあらゆる資金源からの資金の水準を実質的かつ段階的に引き上げ、2030年までに少なくとも年間2,000億米ドルを動員すること(ターゲット19)などが掲げられています。
そして、その資金動員の方策の一つとして、インパクトファンドやグリーンボンド、生態系サービスへの支払い(PES)に並んで挙げられているのが今回のテーマである「生物多様性クレジット」です(注)

(注)参考:Global Biodiversity Framework. ターゲット19(d)においては、「生態系サービスへの支払い、グリーンボンド、生物多様性オフセットおよびクレジット、利益配分メカニズムなどの環境および社会的セーフガードを持つ革新的なスキームを刺激すること」との記載がある。

2 生物多様性クレジットの定義と概念

2.1 生物多様性クレジットの定義
そもそも生物多様性クレジットとは何でしょうか。定義はさまざまありますが、よく引用されるBiodiversity Credit Allianceの定義によれば、生物多様性クレジットは「測定された証拠に基づく生物多様性のポジティブな成果を単位として示す証明書であり、永続性があり、追加的に発生するものである」(著者訳、参考:Biodiversity Credit Alliance, Definition of a Biodiversity Credit)とされており、つまり、企業やその他の主体が、自然保全のための資金を調達したり、自然に対して創出した価値を売買したりするための仕組みと言えます。

そして生物多様性クレジットにおいては、ポジティブな成果が定量的に測定でき、持続性・永続性があるものであり、かつそのプロジェクトがあったからこそ生まれた価値・成果であるという追加性も要素として求められます(図表1)。温室効果ガス(GHG)に値段をつけて取引するカーボンクレジットはすでに仕組みとして動き出していますが、同様の考え方を生物多様性にも適用しようというものです。

図表1:生物多様性クレジットの一般的な要素

2.2 相殺(オフセット)型と貢献型
生物多様性クレジットにはさまざまなタイプがありますが、ここでは、「相殺型」と「貢献型」の2つに区分して整理しましょう。「相殺型」は、開発などにより自然に対して与えた負の影響を相殺するための交換手段としてのクレジット、対して「貢献型」は、負の影響の相殺は前提としておらず、自然回復や再生などの自然に対する正の影響を生み出すプロジェクトの資金調達方法としてのクレジットのことを指します(図表2)。

図表2:自然クレジットにおける2つのタイプ

まず「相殺型」を理解するためには、生物多様性オフセットという考え方を整理する必要があります。生物多様性オフセットとは、人間による開発活動などで失われた生物多様性を別の場所での再生回復活動により相殺するという考え方です。しかし、当然ながら場所ごとに異なる生態系を完全に代替するということは不可能であるため、代替はあくまで最終手段です。

オフセットを行う際には図表3にあるとおり、まず開発などで影響を受けるエリアに関して、そもそもの影響をゼロにするという影響の「回避」を行い、その次に、影響は与えるがその影響の程度を下げる「軽減」を行います。そして、回避と軽減を行ってもまだ残存してしまう影響について、別のエリアでの「回復・再生」により代償するというのが、実施のステップです。

この回避・軽減・回復再生という実施プロセスの考え方は、ミティゲーションヒエラルキー(緩和階層)と呼ばれており、長年、環境影響評価分野などで用いられてきた枠組みです。そして、このミティゲーションヒエラルキーにおける回復・再生分を他者が行った自然回復分の購入により代償・相殺(オフセット)する方法が、ここでいう「相殺型」の生物多様性クレジットです。

なお、オフセットにより影響がちょうど相殺された状態をノーネットロス、オフセットの効果が与えた負の影響を上回ることをネットゲインと呼びます(図表3、参考:Madsen, Becca; Carroll, Nathaniel; Moore Brands, Kelly; 2010. State of Biodiversity Markets Report: Offset and Compensation Programs Worldwide.)。

従来、生物多様性クレジットはこのオフセットの考え方を前提とした「相殺型」が多く、ミティゲーションバンキングやバイオバンキングなどの名称で呼ばれています。米国、オーストラリア、ドイツなどではこのバンキング制度が運用されています。また、後段で紹介する英国の生物多様性ネットゲイン法でも「相殺型」の生物多様性クレジットが運用されています(参考:IAPB Framework for high integrity biodiversity credit markets)。

図表3:ミティゲーションヒエラルキーの考え方

一方で、近年は負の影響の相殺手段としての生物多様性クレジットではなく、ポジティブな目標に対する貢献量を単位化する、いわゆる「貢献型」クレジットの考え方も出てきています。

これは、企業などの組織が行う自然回復や保全プロジェクトに対する資金調達手段としてのクレジットです。相殺型に比べ、実際に制度として動いているものが少ないですが、事例としては、オーストラリアのNature Repair Marketなどが挙げられます。この制度は、自然地域の修復と保護を目的としたプロジェクトを奨励し、資金を提供することを目的としており、土地所有者や管理者がプロジェクトを計画・実行し、取得したクレジットは企業などに売買が可能です。クレジット購入者はプロジェクトへの貢献を示すことができます。現在、この制度の対象プロジェクトは土地の森林化や在来植物の植栽に限定されていますが、今後は在来植物のさらなる増加促進や、自然の保全・保護の拡大が対象となる予定です。他にも、ブラジルや中国などで、この「貢献型」に近い仕組みの導入が現在検討されています(参考:IAPB Framework for high integrity biodiversity credit markets)。

2.3 オフセットへの批判
オフセットについては反対意見も多く、生物多様性条約第16回締約国会議(CBD COP16)の会場においても生物多様性オフセットの反対デモが活発に行われていたほどです。異なる場所が全く同じ生態系を持つことはあり得ない中で、それらを代替すること自体が間違いであるという意見です。

このような背景もあってか、近年新しく導入が検討されているクレジット制度を俯瞰すると、「貢献型」に当たるものが多いように思われます。そして、相殺型においてもオフセットは国際的取引ではなく、あくまで同地域内での同等価値の代償という考え方(Local to local, Like for like)が広まっています(参考:IAPB Framework for high integrity biodiversity credit markets)。

3 生物多様性クレジットの課題

実例も出てきている生物多様性クレジットですが、やはり実際の制度としての実装においては、まだ多くの課題があります。ここでは技術的課題と制度的課題に分けて今後の課題を見てみましょう。

3.1 技術的課題
まず技術的な課題は、測定の問題です。多面的機能を持つ生態系や生物多様性を完全に把握することは非常に困難であり、これは相殺型・貢献型いずれにも当てはまる課題です。

自然の成果を測るには、何らかの指標を設定し測定する必要がありますが、自然に影響を与える企業の行動(インパクトドライバー)を測る指標(例:改変した土地面積、使用した水の量など)については、自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)を中心とした企業の自然関連情報開示の文脈で活発に議論がされています。

さらに現在、自然関連の団体で構成されたNature Positive Initiative(NPI)などが、より測定の難しい、自然の状態(例:種数、生物多様度指数など)の指標の検討を進めていますが、クレジットの文脈においても同様の検討が必要になります。

詳細な調査データに基づいて、生態学研究でも使われてきた生物多様性指標(シャノンインデックスなど)を使うのか、種数、個体数、あるいは土地被覆別にあらかじめ設定された係数など、より簡易的な指標を使うのかといった選択肢が考えられますが、測定が厳密すぎると、コストの上昇などにより市場参加者が減ってしまい、仕組みとしての実行可能性や展開可能性が失われる懸念が出てきてしまいます。

一方で、運用のしやすさを優先して指標や測定方法を簡易化しすぎると、今度は生態学的に重要な観点が抜け落ちてしまい、適切な実態の反映ができなくなってしまいます。生態学的に求められるレベルと制度運用の実現可能性の間のバランスをいかに取るかが、大きなポイントの一つになるでしょう。

3.2 制度的課題
次に、生物多様性クレジットを仕組みとして構築する上での制度的課題を見てみましょう。

まずは、モニタリング・管理に関する課題です。冒頭で生物多様性クレジットの定義の一つとして紹介した永続性の観点から、クレジットの価値を生み出している成果を持続させること、またその状況を透明性をもってモニタリングするということは大変重要です。

ただ、生物多様性を含む自然状態のモニタリングには一定のコストと人的リソースが課題になることが予想されます。誰が責任を持って、どのように管理・モニタリングを行うのかを明確にし、仕組みとして機能する設計を行う必要があります。これは相殺型・貢献型いずれにおいても言えるポイントです。

次にインセンティブ設計の課題です。特に貢献型については、クレジット購入者のインセンティブをいかに設計できるかがポイントになります。相殺型であれば、英国のネットゲイン法のような規制により開発者にクレジット購入のインセンティブが生まれますが、貢献型の場合は、そもそも誰が購入するのか、購入者のインセンティブは何かという点について工夫を行う必要があるでしょう。

もちろん、広い意味で、自社サプライチェーンのレジリエンス強化や社会的評価の向上など購入者側のメリットが考えられますが、現実的により多くのステークホルダーが市場に参加するようになるためには、より強力な経済的インセンティブが必要となるでしょう。この点については、市場や法規制を含めた統合的な設計が必要になると思われます。

このように、ここで挙げた一部の課題だけを見ても生物多様性クレジットの実現にはまだまだ多くの議論と検討が必要であることがわかります。

4 今後に向けて:生物多様性クレジットの展望

生物多様性クレジットは、ネイチャーポジティブに向けた行動を進めるビジネス界では大きく注目されており、そこにビジネスとしての機会を見いだしている企業も少なくありません。EUにおいては、企業の自然資本への投資を促進するために、自然クレジット制度ロードマップを策定し、パイロットプロジェクトの実施やクレジットの需給評価などを行うことが計画されています(Nature Credit Roadmap)。本稿では、概要に加え、課題点を見てきましたが、これらの課題を解決し、きちんと機能する仕組みと市場を構築することができれば、生物多様性保全に必要な資金を大規模に動員しうる有力な解決策となるでしょう。

課題の議論が成熟しないままに仕組みだけ走り出してしまうことは、実体のない生物多様性の創出価値が取引される、いわゆるグリーンウォッシュを引き起こすことにもつながりかねません。この点はカーボンクレジットにおいて近年指摘がされている問題でもあり、制度設計者のみならず、クレジット創出や購入を行う市場参加者もよく理解して注意する必要があります。

課題を一つ一つ丁寧に解決しながら、2030年のネイチャーポジティブ実現に向けて、十分な資金が生物多様性保全の現場に流入するような仕組みとして構築されることが期待されます。

PwCでは自然・生物多様性クレジットを含むさまざまなネイチャーポジティブに資するソリューションの支援を行っております。詳しくは生物多様性に関する経営支援サービスをご覧いただき、個別のご相談につきましては、お問い合わせフォームよりお気軽にご連絡ください。

主要メンバー

小峯 慎司

シニアマネージャー, PwC Japan有限責任監査法人

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中尾 圭志

マネージャー, PwC Japan有限責任監査法人

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水﨑 進介

マネージャー, PwC Japan有限責任監査法人

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