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2025年5月12日、米国のトランプ大統領は、国内における処方薬の価格を他の先進諸国と同水準に引き下げることを目的とした大統領令「最恵国待遇(Most Favored Nation: MFN)薬価政策」を発令しました1。
これは、米国民が支払う医薬品費用の削減を目指し、処方薬の価格を他の先進国と比較して最低価格に揃えるよう指示するものであり、グローバルな医薬品価格のダイナミクス、企業の収益構造、政策実施の実効性において重大な論点を孕んでいます。
これを受けてPwC米国は「Beyond the headlines: Decoding policy shifts in health industries」(Most Favored Nation prescription drug pricing Executive Order May 12, 2025)というレポートをただちに発信しました2。本稿では、その内容を伝えるとともに、本大統領令の背景や目的、構造的課題、今後の影響とシナリオについて考察を加えます。
なお、PwCコンサルティング合同会社は2025年2月の調査レポート「トランプ新政権における医療政策変更に伴う製薬企業の対応について」において、米国医薬品市場へ与える悪影響として、薬価の価格透明性に関する政策を挙げました3。薬価の価格透明性は重要である一方、製薬会社から見れば薬価の低下が起こり、適正な価格に付加価値をどのように反映させていくかがより難しくなると述べ、薬価のMFN政策も注目すべきと指摘しました。本レポートも併せてご覧ください。
米国は世界人口の約4%を占めるに過ぎませんが、AHIP(America's Health Insurance Plans)によると、特定の新薬に関しては、世界全体の売上の56%を占めています(図表1)。またウォール・ストリート・ジャーナルは、米国が世界の医薬品利益の約70%を占めていると報じています4。
図表1:医薬品収益における米国のシェア
出所:AHIP(America's Health Insurance Plans)“Gaming the System: How Big Pharma Drives Its Higher Revenues Through Patent Gaming and Extending Exclusivity”P3を基にPwC作成
保険制度の特性と民間市場に依存した価格交渉の構造の下、他国と比較して高額な薬価が定着しており、米国内では度々政策的対応が急務と言及されてきました。こうした状況を受け、トランプ政権は米国内消費者の負担軽減を狙い、国際価格に基づく新たな薬価制度の導入を第1次政権と同様に第2次政権でも打ち出したことになります。
MFN政策とは、米国内の薬価を他の先進国(OECD加盟国など)の中で最も低い価格、または加重平均価格に連動させようとするものです。特にメディケア Part Bで支払われる高額薬剤(主に静注薬)を対象とする案として、第1次トランプ政権下(2020年)で発表されましたが、当時は連邦地裁によって差止命令が下され、実施には至りませんでした。
対象となる比較国は、OECD加盟国の中でも1人当たりGDPが米国の60%以上の国が想定されています。例として、スイス、アイルランド、ルクセンブルク、ドイツ、スウェーデン、オランダなどが挙げられます(図表2)。
図表2:OECD加盟国の1人当たりGDP
国名 |
2025年の1人当たりGDP(単位:米ドル) |
ルクセンブルク |
140,941 |
アイルランド |
108,920 |
スイス |
104,896 |
アイスランド |
90,284 |
ノルウェー |
89,694 |
デンマーク |
74,969 |
オランダ |
70,450 |
オーストラリア |
64,548 |
オーストリア |
58,192 |
スウェーデン |
58,100 |
ベルギー |
57,772 |
イスラエル |
57,760 |
ドイツ |
55,911 |
フィンランド |
54,163 |
英国 |
54,949 |
カナダ |
53,558 |
出所:IMF World Economic Outlook(2025年4月版)を基にPwC作成
MFNの主な条項は以下のとおりです。
①MFN価格の義務化:製薬企業は、米国における価格を他の先進国の最低価格に合わせる必要があり、もし履行されない場合、規制措置や法執行の対象となる可能性があります。
②30日間の価格交渉:米国保健福祉省が企業に対し、30日以内に国際的な最低価格と同水準に価格を自主的に調整するよう要求します。
③法執行措置:不履行時は、MFN価格の義務化ルールを制定し、低価格国からの輸入拡大や反競争的行為の調査・起訴を検討します。
④直接患者販売制度の導入:保健福祉省のロバート・F・ケネディ・Jr長官は、製薬企業からMFN価格で直接消費者が購入できる制度を構築予定です。
⑤国際通商政策の精査:商務省および米国通商代表部(USTR)が、米国消費者に不利益を与える外国の価格抑制政策について調査します。
この大統領令は現時点では任意ベースであるものの、薬価引き下げ策をいくつか検討している模様であり、CMS(Centers for Medicare & Medicaid Services、米国メディケア・メディケイド・サービスセンター)は国際価格参照制度に基づいた薬価算定の仕組みを試験的に導入する可能性を示唆しています。
その実効性についてはさまざまな意見があります。例えば米国内で承認された医薬品は数千種類ありますが、その一部は他の参照国では保険適用されていない、または販売されていない状況です。また、一部の国では薬価確定までに時間がかかるため、米国が価格を参照しようしても時間差があり、実装は現実的ではないなどの意見も多く出されています。しかしながら、第1次トランプ政権、バイデン政権、第2次トランプ政権の推移をみると、薬価抑制のトレンドは一貫していることには留意が必要です。
今後、製薬企業はMFN対象国での現行価格に基づき、複数の価格影響シナリオを想定し備える必要があります。
仮に制度改正が行われMFN政策が導入された場合、以下のような制度的論点・構造的変化が想定されます。
①薬価構造の国際価格連動制への移行:OECD諸国との価格差を縮小させる設計により、米国薬価のグローバル市場連動が制度化される可能性があります。
②IRA(インフレ抑制法)によるメディケア価格交渉制度との干渉:例えばIRA下で設定される最大公定価格(MFP)とMFNが二重構造となり、価格整合性の確保が課題となります。
③Best Price(メディケイド制度下の最安価格)との関係性:現行制度上、MFN価格が自動的にBest Priceとして認定されるわけではありません。ただし、法改正またはCMSの解釈変更により両者が連動する可能性が懸念されます。
④340Bプログラム・PBM(Pharmacy Benefit Manage、処方薬の保険給付管理を担う中間業者)モデルへの波及:MFN価格が新たな市場基準価格として機能し始めた場合、薬局・流通・保険償還制度全体に波及的影響を及ぼす可能性が高いと考えられます。
MFNが医薬品価格構造、バリューチェーン、流通、保険償還制度に及ぼす影響は、以下のとおり、ステークホルダーごとに出てくると考えられます。
①メディケア Part B市場における収益の圧縮
②Best Price規定・340B制度を通じたリベート圧力の波及
③民間市場(PBM・GPO(Group Purchasing Organization、病院・診療所・薬局など複数の医療機関をまとめた購買集団)経由)への価格転嫁が困難
④イノベーションと新薬投資モデルへの影響
⑤グローバル価格戦略との整合性リスク
⑥IRAとの連動による複層的圧力
⑦企業の中長期経営戦略への不確実性の波及
①保健福祉省およびCMSが開発予定の「直接患者販売制度」により、大手チェーンや流通業者の売上高が大きく減少する可能性があります。
②MFN価格の導入により、WAC(卸売取得価格)やAWP(平均卸売価格)ベースの薬局の償還額が減少する可能性があります。
①「直接患者販売制度」によって従来の製薬バリューチェーンが変更される可能性があります。
②リベート主導モデルおよび価格保証の枠組みが崩れる可能性があります。
③契約価格の枠組みが崩壊し、WAC価格に基づくPBMや購買組織の報酬構造に大きな影響を及ぼす可能性があります。
①MFN価格が新たな「Best Price」として設定された場合、340B制度の価格上限が引き下げられる可能性があります。
②償還額がMFN価格に連動することで、医療側のコスト回収率が低下する可能性があります。
MFN政策が導入された場合、上記のようにIRAやBest Price、PBM改革、340Bなど複数の価格制度が交錯することにより、薬剤価格体系の一貫性の喪失が起こる懸念があります。仮に支払者間で異なる価格が同時に適用されることがあれば、製薬企業のみならず、医療提供者・患者・保険者にとっても運用上の混乱を招く恐れがあります。
特に、MFN価格を基準とする直接患者販売制度や、通商政策と絡めた価格圧力が実現すれば、既存のPBM・GPO構造の変化や、製薬会社の採算割れによる供給停止・アクセス制限といった実務上の影響も想定されます。
このような複合的な制度干渉に備えるには、企業ごとに以下のような対応が求められると考えます。
これらの動向を引き続き注視し、リスク低減の実務的対応策を早期に準備することが、グローバルに展開する製薬企業にとっての最優先課題となります。
次に日本の製薬企業の視点からその影響について整理します。以下の5つが大きく影響するものと考えられます。
①米国市場での直接収益減圧力
MFN政策によりOECD諸国の最低薬価と米国価格が連動すると、日米の薬価差が大きい品目が多い日本の製薬企業にとっては、価格引き下げリスクが顕在化します。
希少疾患薬においては米国プレミアム価格を享受している品目もありますが、MFN導入により、こうした米国価格優位が崩れ、収益インパクトに大きく影響する可能性が高いと考えられます。
②Best Price/340Bとの連動圧力(日本の製薬企業の米国子会社自販のケース)
MFN価格がBest Priceや340B価格基準に波及すれば、公的市場でのリベート負担が増加します。これは特に自社販売モデルを持つ企業にマージン圧迫として直撃する可能性が高いでしょう。
③ライセンス収入モデルへの波及
日本の製薬企業の多くはライセンス提携型で売上ロイヤルティ収益を獲得しています。MFN導入で米国市場価格が低下すると、売上ロイヤルティのベース価格が減少し、間接的な収益圧迫が生じます。日本の製薬企業はこうしたロイヤルティ契約ベースに依存する事業が大きいため、間接的な影響が相当程度生じる懸念があります。
④グローバル価格戦略の矛盾リスク
日本市場では実勢価格調整(市場拡大再算定を含む)制度があるため、米国価格の低下を防ぐために自国薬価を意図的に引き上げる戦略を取ることができません。そのため、戦略的な価格維持を考えるとすれば、米国以外は販売しないという手段をとり、国際参照価格を回避するような企業が出てくる可能性があります(これに伴う社会的・倫理的な問題も懸念されます)。
また、今日までの日本の製薬企業のグローバル展開という企業戦略自体に修正が加えられる可能性があります。「国際参照価格政策」によって米国価格低下が逆流的に日欧を含めた多くの市場の価格改定リスクを生む可能性もあり、米国市場の売上減少を他の市場でカバーすることは難しいと考えられます。
⑤イノベーション投資モデルへの心理的影響
日本の製薬企業のグローバル製品は、オンコロジー/希少疾患/遺伝子治療/バイオ医薬品など高価格モデルのパイプラインを柱にしています。MFNの制度化は、高価格モデルに依存するビジネスロジックそのものに疑義を投げかけ、研究投資判断の慎重化/リスク回避的傾向が強まる可能性が大きいと考えられます。
以上を踏まえ、図表3に日本の製薬企業のタイプとその影響をまとめました。
図表3:日本の製薬企業への影響
企業タイプ |
影響の強度 |
主な影響領域 |
典型的な米国収益構造 |
MFN/IRA影響の主なチャネル |
グローバルメガファーマ型 |
高 |
直接米国売上+全社収益構造 |
米国現地法人自販+米国主導のグローバル価格形成 |
Part B対象高価格注射剤・抗体薬が多数 |
高価格特殊品中心型 |
高 |
ライセンスロイヤルティ収入 |
米国パートナー企業との共同販売/ロイヤルティ型収益モデル |
高額抗がん剤(Part B/D)+ロイヤルティ計算ベース低下 |
中堅自販型(ニッチ製品・希少疾病型) |
中~高 |
Best Price/340B/米国自社販売利益圧迫 |
米国現地法人による自社販売モデル/希少疾患中心 |
Part D対象Ultra-Orphan薬/自社販売収益への直接影響 |
内需中心型 |
低 |
米国依存度が低いため影響は限定的 |
日本・アジア市場中心で米国市場は限定的 |
影響は限定的(為替/日本薬価の逆流影響が主) |
出所:PwC作成
これらの影響を十分に分析・把握して対応するためには、以下のような最低3つの施策が喫緊に必要であると考えられます。
①価格ガバナンス能力の強化が不可避:MFN・IRA・Best Price対応型の価格管理チーム/契約における戦略部門の社内強化が求められます。価格政策ワーキンググループの即時設置と全社ガバナンス強化が必要です。
②パイプライン選択の見直し:高価格依存型モダリティへの投資集中の見直しと分散化が検討される可能性があります。パイプラインレビュー会議体で価格リスクを新たな評価軸に追加するべきです。また、各主要市場価格マトリクス管理体制の導入、BIツール整備が必要です。
③ライセンス契約設計の見直し:MFN・IRAの影響を踏まえた価格調整条項(Price-adjustment Clause)の標準化が重要になります。法務・ビジネスデベロップメントチームでの契約条項テンプレートの刷新などが必要です。
今回の事象は、米国のMFN政策に端を発していますが、薬価抑制は世界的な傾向です。上述した施策はいずれも重要かつ不可欠なものであり、今後の企業戦略の根幹になると考えられます。
トランプ政権によるMFN導入は、米国内の医薬品価格是正を強く志向するものの、その制度的・法的限界、ならびにグローバル市場への波及効果を含めた複雑な課題を内包しています。トランプ政権が発動した多くの大統領令に対しては、大統領権限を逸脱しているとして多くの裁判が起こっており、その実現性に疑問符がついています。
最近の例として、米国の国際貿易裁判所はトランプ政権が「IEEPA=国際緊急経済権限法」を根拠に発動した相互関税や一律関税などの措置が大統領権限を越えているなどとして差し止めを命じました(しかしながらトランプ政権が控訴したことを受け、連邦控訴裁判所は、審理する間、国際貿易裁判所の決定を一時的に停止すると命じており、関税措置が継続されています)。
こうした事例はトランプ1次政権でも見られており、政策の柱となる措置の法的根拠が否定されるケースが多くなれば、政権の実行能力において大きな打撃となります。
仮にMFN導入が声高に唱えられたとしても、その導入に対して裁判が起こされて導入が遅れたり、法的根拠の欠落によって否決されたりするケースも想定されます。
しかしながら、今回の事案は、単なる価格引き下げにとどまらず、イノベーション促進、公平なアクセス、企業の持続可能性といった多様な要素を総合的に考慮する必要があります。
PwCコンサルティング合同会社は書籍「世界の『分断』から考える日本企業変貌するアジアでの役割と挑戦」(ダイヤモンド社)において、今後のグローバル化におけるシナリオを提示しています5。具体的には、18世紀の半ばから2010年頃まで続いたグローバル化と技術革新を原動力とする驚異的な経済成長の時代が、この時代を形作るグローバル化の終焉と共に完全に終わるというシナリオを示しています。「グローバル化の終焉とは、世界がヒト、モノ、カネの流れで一つに繋がり、企業は自社にとって最適な原材料、部材を世界中から調達することで製品を作り、その製品を最も高く大量に売ることができる地域で販売すること、こうしたグローバル化で容易に行うことができた経済活動が困難になることを意味する」と述べており、今まさにその局面に遭遇していると思われます。全ての医薬品サプライチェーンの価値の半分以上を米国に支払う≒米国で販売して利益を得るビジネスモデルに警鐘が鳴らされていると言えるでしょう。
トランプ関税、最恵国待遇政策などの問題も含め、今まで米国主導で推進してきたグローバル化を米国自身で巻き戻そうとしており、企業のビジネスモデルが大きく変わらざるを得ないシナリオが現実のものとなる可能性があります。日本の製薬企業の大半は米国市場をグローバル化の中心として認識してきましたが、米国市場≒グローバル化の停滞・終焉というシナリオを想定した場合、その認識をどのように変革していくべきなのか、今後どのように経営の舵を切っていくべきか、大きな転換期を迎えています。
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