PwCコンサルティングのシンクタンク部門であるPwC Intelligenceは2025年4月、書籍『世界の「分断」から考える 日本企業 変貌するアジアでの役割と挑戦』(ダイヤモンド社)を刊行しました。世界は米中対立と経済安全保障重視の流れのなかで大きく揺らぎ、「分断の時代」に入りつつあります。本記事は同書の執筆を担当したPwC Intelligenceメンバーのディスカッションをまとめたもので、全5回のシリーズ構成です。今回はその第5回(前編)。駒澤大学の井上智洋氏(マクロ経済学)をゲストに迎え、PwCコンサルティングの専門家との議論を通して日本経済の現状を考察します。新たな成長の鍵として着目したのが、「AI」と「AI人材の育成」。時代の逆風に立ち向かう飛躍の道を探りました。
(左から)伊藤 篤、井上 智洋氏、祝出 洋輔
参加者
駒澤大学 経済学部 准教授
井上 智洋氏
PwCコンサルティング合同会社 PwC Intelligence シニアエコノミスト
伊藤 篤
PwCコンサルティング合同会社 PwC Intelligence シニアマネージャー
祝出 洋輔
※法人名、役職などは対談当時のものです。
伊藤:
本日はPwC Intelligenceの新刊『世界の「分断」から考える日本企業 変貌するアジアでの役割と挑戦』の、第4章「超高齢社会を迎えるアジアの財政・社会保障」、第7章「未来に向けた、テクノロジーによる社会課題解決─日本・アジア発のテクノロジーのポテンシャル」での論考をベースに議論を深めたいと思います。
テーマは大きく2つ。1つ目は、「AIによる日本経済の復活の可能性」。2つ目は、「AIの進化に伴う課題とその解決策」です。なお、井上さんはマクロ経済の他、AIが経済に及ぼす影響についても精力的に研究なさっています。PwCコンサルティング 祝出の専門領域は半導体・電子部品を中心とする製造業、伊藤の専門はマクロ経済です。
まずは日本経済の現状と課題を確認しましょう。1990年初頭にバブル経済が崩壊して以降、日本経済は長期にわたり低迷し、景気の横ばいが続きました。いわゆる「失われた30年」です。この間、社会の高齢化と人口減少が高進し、人手不足は現在に至るまで経済成長の足かせになってきました。また、高齢化が進めば社会保障の需要が増え、財源確保のための税や社会保険料など国民負担が増して経済成長を押し下げる要因になります。財政も含めた日本経済の現状を、井上さんはどうご覧になっていますか。
井上氏:
「高圧経済」という考え方をご存じの方も多いかと思います。金融緩和や財政刺激を続けて需要超過の状態を維持し、経済の活性化を図る政策手法です。日本は失われた30年の間、金利をゼロに、さらにはマイナスにするという異次元の緩和策を導入した一方で、財政規律の制約のためにアクセルを十分に踏みきれず、「低圧経済」が続きました。この間にデフレマインドが染みつき、研究開発や生産設備、人材に対する投資が低迷。人々の「アニマルスピリッツ(挑戦する精神)」も失われていきました。ようやく今、日本経済は需要不足の局面から供給制約の局面に入りつつあり、いわば「中圧経済」くらいにまで回復してきた状況です。
駒澤大学 経済学部 准教授 井上 智洋氏
祝出:
「中圧経済」という表現は言い得て妙ですね。
伊藤:
物価・賃金の上昇率がほぼゼロのまま動かず、経済活動が低迷し続けた状態を私は「凍結経済」と呼んでいます。それがやっと“解凍”され、物価・賃金が安定的に上昇する兆しが見えてきました。ただし、完全に解けきったかというとそうではなく、まだ半分ぬかるんでいます。失われた30年から完全に抜け出したとは考えにくい状態ですね。
井上氏:
おっしゃるとおりです。「中圧経済」は“ちょうど良い湯加減”かもしれませんが、失われた30年を脱却するには、やはり「高圧経済」の状態にして人々のハートにも経済にも“火”を付け、「完全解凍」しなくてはならない。もちろん「沸騰しすぎ=バブル」は避けるべきですが、米国トランプ政権の影響で日本経済が再び悪化し、消費需要が低迷して投資需要も冷え込むリスクは高まっています。減税や給付など可処分所得を増やす政策が必要です。
祝出:
日本経済の基幹産業は製造業で、GDP(国内総生産)の約2割を占めます。ただ残念なことに、失われた30年で国際競争力が低下した電機や半導体のような業種もあります。激しいグローバル競争の下、日本経済の屋台骨を支え続けている自動車業界も安閑としてはいられない状況です。かつてとは異なり、生産年齢人口の割合が高い「人口ボーナス」の追い風もないなかで、失われた30年を脱した先、日本経済が「次の成長」を目指すには何が必要でしょうか。
井上氏:
少し長いスパンで考えた場合、生産年齢人口が減り続けるなかで経済成長し続けるには、「生産性を劇的に高める」必要があります。とはいえ、「そんなことを可能にする“魔法の杖”はない」というのが、多くの方の認識かもしれません。
しかし魔法の杖はある。お気付きのとおり、それが「AI」です。AIの進化は目覚ましく、2030年ごろまでには、平均的な労働者がパソコンを使ってできる作業のほとんどをこなせる「汎用人工知能(AGI)」が実現し、「年率30%以上の経済成長率もあり得る」との予測もあります(※)。
AIには、既にさまざまな進化の萌芽が見られます。代表例が「AIエージェント」です。電話やメールへの応対、顧客対応、事務処理、オンライン会議への参加まで、人に代わって実際に行動を起こせるAIで、2025年は「AIエージェント元年」と呼ばれています。日本が今後、少子高齢化が深刻化する中で高い経済成長を実現するためには、AI産業の勃興が欠かせません。
祝出:
現実世界の物理法則をAIに機械学習させ、クルマやロボットなどが自律的に動くようにする「フィジカルAI」という技術トレンドも注目されています。ロボットは日本が強みを持つ分野ですから、日本でのAI技術の広がりとAI産業の飛躍に期待したいところです。
※出典:Leopold Aschenbrenner 2024 ”Situational Awareness”
伊藤:
日本の名目GDP(国内総生産)は約600兆円規模ですが、実はAIが生成した価値はこれに含まれていません。今後、AIが生み出すものを含むデジタル、データの価値も計上されるようになり、数字が映し出す日本経済の姿も変わりそうです。日本でAI産業が勃興するために、井上さんは何が必要だとお考えでしょうか。
PwCコンサルティング合同会社 PwC Intelligence シニアエコノミスト 伊藤 篤
井上氏:
人材育成と積極的な研究開発投資が急務です。私が、具体的な政策として提案しているのが「新本郷バレー計画」です。東京・本郷の周辺を米国のシリコンバレーを超えるテックベンチャーの集積地(新本郷バレー)にしようという構想です。その実現に向けては、政府によるAI関連予算の充実、AI庁やAI研究所の新設といった体制による支援、AI専用の巨大データセンターの増設などが必要です。こうした産官学のエコシステムを構築することで、優秀な人材を惹き付け、安心して大胆なチャレンジができる環境を整えます。
実は現在、このエコスシステムを築く上で千載一遇のチャンスが訪れています。米国トランプ政権下で研究機関の予算が削減されたり、人員が解雇されたりしている影響で、米国のAI系・テック系人材の海外流出が起きているのです。こうした優秀な専門人材を海外から受け入れる政策も大胆に実行すべきでしょう。
伊藤:
なぜ、「本郷」なのでしょうか。
井上氏:
実際のところ、「本郷」という場所にこだわっているわけでは必ずしもありません。たまたま日本のAI研究の先駆者である松尾豊先生(東京大学)の研究室が本郷にあり、教え子の方などがその周辺でAIベンチャーを起業されていることが多いのと、名前のインパクトもあると思います。
伊藤:
PwC Japanグループは企業のAI導入支援だけでなく、AI人材教育にも力を入れています。AI人材の育成は日本の成長における大きな課題であり、私たち自身も取り組みを進めていきたいと思っています。
祝出:
新たな産業の勃興に必要なのは、何を置いてもまず「人材」ですよね。AI人材を国別・地域別に並べたランキングを見ると、「勤務先所在地」では米国が過半を占めてトップ、次いで中国、欧州各国が続き、日本は下位です。日本のAI人材不足は深刻な状況と言えます。
一方「出身地」では、米国がトップではあるものの、中国が米国と並ぶシェアを占め、インドが3位にランクインしています。これらのデータから日本が読み取るべき教訓として、AI人材育成への一層の投資に加えて、海外から優秀なAI人材を誘致するための投資も重要であることを指摘できます。井上さんはどうお考えになりますか。
PwCコンサルティング合同会社 PwC Intelligence シニアマネージャー 祝出 洋輔
井上氏:
ご指摘のように、日本のAI人材不足は深刻です。特に30~50歳代くらいのAI研究者は本当に不足しています。1980年代に当時の省庁が進めたプロジェクトがその一因であるとも言われますが、当時これという成果が出なかった結果、「AIを研究しても物にならない」と考える人が増え、AI研究者を減らしてしまったとも考えられています。その流れから、その後の世界的なAIブームの際にも他国に比べて研究が盛り上がらず、AI人材の国別・地域別ランキングにもランクインしないような「AI後進国」になってしまったわけです。
ただ、1つ希望を持てるのは、現在20歳代のAI研究者、もしくはAIを研究したいと希望する若者が潜在的には多いこと。そうした潜在的なAI人材の受け皿として、そして心置きなくベンチャービジネスにチャレンジし、失敗しても“帰って来られる場所”として、AIの研究拠点が必要なのです。
祝出:
AI人材育成の重要なポイントとして、「AIをつくる側の人材」だけではなく、「AIを活用する側の人材」の育成も大切だと思います。この点についてはいかがでしょうか。
井上氏:
もちろん「AIを活用できる人材」の育成も重要です。資本主義の原理では、労働者は自らのスキルを武器に他の労働者よりも有利な条件を勝ち取る、という競争にさらされます。しかしAIエージェントが登場し、その先にAGIの実現が視野に入ってくると、知識やスキルよりも、自身のアイデアを形にするため、いかに適切な指示(ディレクション)をAIに出せるかが、労働者の価値として新たに問われるようになります。
しかし現状、AIを使いこなせる人やAI技術を研究開発できる人は日本では足りていません。「失われた30年」の抑制的な財政・金融政策の下でデフレマインドが強固に形成され、国も企業も人材育成にお金を使ってこなかった結果です。大学でも、AIやデジタルに関する学部・学科はこの間にそれほど増えませんでした。「AI人材」を育成するために、産官学はもっと資金を投じるべきです。
失われた30年で、日本はアニマルスピリッツを失いました。新しい技術が出てきても「どうせ大したことない」と後ろ向きに考える。そのデフレマインド、アニマルスピリッツの欠如が、日本をAI後進国にさせてしまった面があります。先ほどの「新本郷バレー計画」も、「そんなの無理だ」との思い込みに直面する機会も少なくありません。しかし、失われた30年以前の私たちだったら、はたして「無理」と思ったでしょうか。
「無理」と思えば、やはりそれは無理なまま時間だけが過ぎ去ります。「できる」と思ってチャレンジしなければ、何事も始まらない。もう一度アニマルスピリッツを取り戻し、失敗を恐れずに挑戦するべきです。
伊藤:
「人材育成にお金を投じるべき」との提言は、わが意を得た思いです。ここに来てようやく、日本企業は人材にお金をかけるようになってきました。人材にしっかりと投資すれば、その分だけ今後の成長余地は大きくなるはずです。
AI時代の本格的な到来を踏まえて「スキルからディレクションへ」という重要な示唆もいただきました。後編ではこのテーマから掘り下げていきましょう。