佐藤暁子氏(ことのは総合法律事務所 弁護士)×北村導人対談【後編】

日本企業の「人権尊重」の取り組みの実務的課題と進むべき道

  • 2025-10-22

今、世界的に企業への人権尊重への取り組みの要求が高まっています。こうした状況の下、日本企業においても、バリューチェーン全体における人権侵害のリスクを点検し、適切な対応を講じることが求められます。実効性のある取り組みを行わなければ国際的に非難されるリスクがある中で、日本企業はどのような点に留意して体制整備を進めるべきなのでしょうか。

前編に引き続き「ビジネスと人権」領域で長年活動する弁護士の佐藤暁子氏をお招きし、PwCでビジネスと人権に関するサービスをリードするPwC弁護士法人代表の北村導人とともに、日本企業の実務的課題である企業の救済メカニズムの構築、グローバルの規制動向と日本企業の進むべき道、さらには環境問題と人権問題の接点などについて議論しました。

(左から)佐藤 暁子氏、北村 導人

(左から)佐藤 暁子氏、北村 導人

実効性のある救済メカニズムの確立に向けて

北村:
私どもの方で支援している企業では、最近、人権デューディリジェンスのPDCAサイクルを軌道に乗せ、ネクストステップとして、これまで既存の制度で部分的にカバーしていた苦情処理メカニズムについて取り上げ、国連のビジネスと人権に関する指導原則に準拠した制度の設計・構築に着手する企業が増えています。指導原則では、苦情処理メカニズムに関して「①正当性、②利用可能性、③予測可能性、④公平性、⑤透明性、⑥権利適合性、⑦継続的学習源、⑧対話」という要素を備えた設計・運用を求めています。しかし、このような制度設計や運用にあたり、自社の既存の内部通報窓口やお客さま・取引先相談窓口と指導原則に基づく苦情処理メカニズムとの関係性、特に制度の相違、すみ分け、ワークフロー、利用者の整理という観点から、実務的に「既存の内部通報窓口とどのように整理・統合すべきか、別の制度を構築すべきか」という課題を抱える企業も少なくない状況です。佐藤さんは苦情処理メカニズムの構築に関する課題感やそれに対する対応策についてどのようにお考えですか。

佐藤:
大企業であれば、コンプライアンスに関するホットラインや内部通報窓口などの既存の通報窓口が指導原則の求める要件に合致しているかどうかを把握することがスタートラインになります。グリーバンス(苦情処理)メカニズムの主な目的は、「ステークホルダーの人権侵害を適切に救済、是正すること」にありますが、この目的は、一般的な内部通報窓口の役割とは必ずしも一致しません。そのため、既存の通報窓口を活用する場合は、国連指導原則の趣旨が反映された運用が実際に行われていることを慎重に確認する必要があります。これは、第三者機関や業界団体といった外部の専門機関を活用している場合も同様です。最終的には社内に指導原則が定着し、人権リスクが取り除かれている状態を目指すため、外部機関を活用する場合であっても、あくまでも自社の施策を中心に置き、責任を持って救済メカニズムの構築・運用に取り組むべきだと考えます。

また、通報を受ける側の対応力を高めるキャパシティビルディング(能力構築)も重要です。多くの場合、通報者は加害側から決して遠くはない環境に置かれているため、まずは通報者の置かれている状況を適切に把握した上で対応することを周知徹底するなど、誰もが声を上げやすい仕組みを整えなければなりません。声を上げることが躊躇われることがないよう報復措置の禁止などを徹底することも必要です。

北村:
確かに内部通報制度の対象は主に「コンプライアンス違反や企業倫理違反」であるのに対し、苦情処理メカニズムの対象は「人権課題全般」であるため、必ずしも既存の制度で吸収できるものではない可能性があります。そのため、実際に、既存の制度とは別に苦情処理メカニズムを構築する企業も少なくないようです。もっとも、新たな制度を一から構築するのは時間やコストがかかるため、苦情処理プラットフォームを提供する外部機関を活用する企業も増えてきています。制度設計はさまざまですが、重要なのは、佐藤さんがおっしゃるとおり、声を上げたい時に上げやすい制度が設けられているか、心理的安全性が担保されているか、そして実効的な対応ができる仕組みや体制になっているかという点ですね。

佐藤:
どの方法で苦情処理メカニズムを設計するにしても、大切なのは「苦情が上がってこない=問題がない」と捉えないことです。開設以来、もし苦情が0~1件程度しか寄せられていないのであれば、その状況にこそ危機感を持つべきです。そして、仮に1件でも苦情が上がっている場合、それは氷山の一角である可能性が高く、人権デューディリジェンスを含めた積極的な対応が求められます。ハラスメントの事例などを考えていただくと分かりやすいかもしれません。また、救済メカニズムを運営する上では、部署間・グローバルでの組織連携が重要です。実効性を担保するためには、役員レベルも含めて全体設計を行い、実務の中で運用される体制を整えることが不可欠だと考えます。

ことのは総合法律事務所 弁護士 佐藤 暁子氏

ことのは総合法律事務所 弁護士 佐藤 暁子氏

グローバル規制下での「ビジネスと人権」の行方と日本での法制化

北村:
現在、グローバルでは人権・環境デューディリジェンスに関する法制化が進んでいます。EUでは企業に対し、サプライチェーン全体における人権・環境リスクを特定し、それを軽減・防止・是正する人権デューディリジェンスなどを義務付ける「コーポレート・サステナビリティ・デューディリジェンス指令(CSDDD)」が施行され、EU各国の国内立法がなされる予定です(ただし、サステナビリティ関連規制の簡素化を図るオムニバス法案<オムニバスパッケージ>によりCSDDDの適用時期、適用対象、規制内容などの見直しが検討されています)。

また、輸出入規制などの貿易管理により強制労働を防止する、米国の1930年関税法や「ウイグル強制労働防止法」などがすでに施行されています。こうした動きの中、注目されているのが第二次トランプ政権による施策により日本企業の人権尊重の取り組みに影響が生じるかという点です。例えば、米国連邦政府機関における「違法なDEI(Diversity, Equity and Inclusion)プログラム」の排除を目的として発令された「違法な差別の根絶と実力主義の機会の回復」と題する大統領令を含みますが、それに限りません。佐藤さんは、こうした潮流の日本企業への影響をどのように見ていますか。

佐藤:
私は第二次トランプ政権が発足したからといって、DEIの意義が失われることはないと考えます。実際、米国には逆風に屈せず、人権施策を継続している企業や団体が多数存在します。企業はこうした不確実な状況だからこそ、中長期的な視点で確固とした方針を持ち、短期的な変化に左右されない姿勢を示すべきです。経営者の軸がぶれてしまえば、現場も右往左往し、エンゲージメント低下やブランド毀損といったリスクにつながりかねません。そもそも米国では、DEIがある程度進展した上で現在のような対立が起きていますが、日本はまだスタートラインにも立っていないのが現状です。日本企業は「DEIは人権に関わる問題である」という認識を明確に持ち、継続的に施策に取り組むことで、社会からの信頼を得ていく必要があるでしょう。逆風下にあっても、「いかにDEIに真摯に向き合っているかどうか」が企業に問われています。

北村:
そのとおりですね。人権尊重の取り組みが単なるコンプライアンス対応にとどまらず、企業の持続可能な成長や企業価値向上にもつながることを理解していれば、外部環境の変化によらず、企業としてやるべきことは変わらないはずです。また、米国やEUなどのグローバルの規制動向をキャッチアップし、適切な対応を行うことは必要ですが、それらの動向に振り回されることなく、これらの規制のベースとなる国連指導原則に基づく対応を着実に遂行していくことが重要であると考えています。

ところで佐藤さんは、日本でも「ビジネスと人権」の法制化は必要だと考えますか。東南アジアや韓国ではすでに法制化の準備を進めているようです。他方、日本では2022年に日本政府が「責任あるサプライチェーンなどにおける人権尊重のためのガイドライン」を公表しましたが、具体的な法制化の議論には至っていません。人権デューディリジェンスを含む人権尊重の取り組みの法制化は、大企業の経営陣、そして中小企業を含むバリューチェーン全体を動かす有効な手段になり得ますし、レベル・プレイング・フィールド(公平な競争条件)にも資するという点はありますが、法制化によってコンプライアンスという単なる法令遵守にとどまり、人権尊重の取り組みの本質を見失うことを危惧する意見もあります。

佐藤:
日本政府のガイドラインは、中小企業も含めた「ビジネスと人権」の取り組みの推進に大きく貢献していると言えます。しかし法律ではないために、社内での取り組みの優先度がどうしても低くなりがちだという声も聞かれます。まずは法制化によって何が達成できるのかを、日本という文脈の中で議論することが必要ではないでしょうか。その際は、人権侵害リスクが高いと言われているサプライチェーン上流のステークホルダーの声にもきちんと耳を傾けなくてはならないと思います。実際にサプライチェーンの上流からは、「法律をもって企業のアカウンタビリティを担保してほしい」という声が上がっています。こうした状況の中で、私個人としては、法制化に向けた議論は積極的に行われるべきだと考えます。

もちろん、関連法令との調整も含めて検討される必要はありますが、現状ではサプライチェーン上で発生する企業の人権侵害に対する責任追及が難しいため、法制度が一定の役割を果たすことは期待できるのではないでしょうか。

PwC弁護士法人 パートナー 北村 導人

PwC弁護士法人 パートナー 北村 導人

環境対策は人権侵害の免罪符にならない

北村:
これまで多くの企業では、脱炭素化をはじめとする環境に関する取り組みと人権尊重の取り組みが別々のチームで進められてきましたが、今後は人権と環境のつながりを正しく認識し、両者を統合して取り組むべき時期に来ています。2022年の国連総会では「清潔で健康的かつ持続可能な環境への権利」が採択され、環境問題と人権問題が切り離せないものと位置付けられました。企業はこうした背景を踏まえ、どのような対応をするべきでしょうか。

佐藤:
日本では「環境リスクが人権リスクでもある」という認識がまだ弱いのが現状です。気候変動と事業活動との関連性は一見見えにくいのですが、例えば異常気象によって工場が浸水すれば、その工場の従業員は働けなくなりますし、猛暑が続けば、従業員は安全に活動できなくなります。事業に影響が出るということは、その事業に関わる人にも影響が出るということなのです。

また、気候変動への適応策が人権侵害を引き起こす可能性も指摘されています。例えば太陽光パネルの設置や、電気自動車の電池で使われる鉱物の採掘では、実際に強制労働が発生していることが報告されています。グリーンな目的に向かっていれば人権侵害が許されるわけではありません。企業は経営リスクの観点と人権リスクの観点を統合し、組織間の連携を通じて多角的なものの見方ができる体制を整える必要があります。

北村:
今国際社会では「Just transition(公正な移行:誰一人取り残さない形での脱炭素社会への移行)」に向けた気候変動への取り組みが強化されています。この公正な移行を実現するためには、既存のビジネスから脱炭素型ビジネスへ転換する過程で人権へのどのような影響があるかを考える必要があります。しかし残念ながら、日本ではその移行に伴う人権に及ぼす影響(リスク)が十分に認識されていません。人権尊重の取り組みを推進する部署は環境対応の部署と連携し、人権と環境を統合したデューディリジェンス(少なくとも人権デューディリジェンスの中で気候変動や公正な移行による人権への影響を調査内容に織り込んでいくなど)を実施することが今後の企業のサステナブル経営のために必須となるでしょう。

佐藤:
すでに環境対応の部署においては、新たな取引先と契約をする際に適用する「環境リスク方針」があると思いますので、その方針を実行する際にどんなステークホルダーが関わってくるのか、ディスカッションをするところから始めてみるのがいいかもしれません。また、新規事業を開始する際にも、事業の推進にあたって発生し得る潜在的な人権リスクを洗い出す仕組みを設ける必要がありますが、ここに環境の観点も当然含まれるでしょう。このようなプロセスを社内に確立することで、人権と環境・気候変動の視点を統合したより包括的なデューディリジェンスの体制を強化していくことができると考えます。また、近年はビジネスのグローバル化が急激に進展していますが、ガバナンスギャップが大きい国ほど人権リスクの被害は深刻化し、救済も困難になります。特に新興国での事業展開においては、企業はより慎重に人権リスクを評価する必要があるでしょう。

北村:
後編は、日本企業の「人権尊重」の取り組みの実務的課題と進むべき道というテーマでお話をしました。日本企業のみならずグローバル企業、NGO/NPO、政府、人権関連団体などさまざまなステークホルダーと対話、助言などをしてきた佐藤さんのお話は、前編と同様に示唆に富むものでした。

今日本企業が直面している課題である苦情処理メカニズムの設計・構築の問題に関して、既存の制度との関係にかかわらず、「ステークホルダーの人権リスクを特定し、適切に救済する」という目的を見失わないこと、「苦情が上がってこないこと=問題がない」と捉えず、むしろ危機感をもって、苦情処理メカニズムの実効性、とりわけ「声を上げやすい仕組み」が整えられているかを問うべきという指摘は、これから制度設計をする企業またはすでに制度を運用している企業のいずれにも参考になるでしょう。また、グローバルの規制動向との関係で、特に第二次トランプ政権下の施策などの不確実な状況にかかわらず、「中長期的な視点で確固とした方針を持ち、短期的な変化に左右されない姿勢を示すべき」という意見は、規制の動向による対応変更に悩む企業の皆さんにとっては、このような軸を持つことが極めて重要であるということを再認識させるものとなったのではないかと思います。日本の法制化の可能性についてはさまざまな意見があるところですが、法制化による実務上の課題のブレークスルーが期待される点から、議論を積極的に進めていくべきことを示唆いただきました。

最後に、環境と人権の関連性や接点について、気候変動がもたらす人権への影響と気候変動対策などの公正な移行に伴う人権への影響についてご説明の上、企業は環境と人権を統合的・多角的に捉え、組織連携を通じて効果的に対応するべきという指摘がありました。現状、それぞれ別々にプロジェクトを進めている企業が多いと考えられますが、今後は環境と人権の交わる課題について企業の組織内で協議をし、それぞれの施策に人権・環境の双方の視点を組み込むことは企業の取り組みの高度化を図る上で重要であるとのお話でした。

前編・後編を通じて、ビジネスと人権に関する取り組みを進める佐藤さんの思いとともに、人権尊重が浸透した社会実現の必要性がひしひしと感じられました。私も微力ながらも企業の人権尊重に関する実効的な取り組みの推進をさらに支援していきたいと改めて認識した次第です。このような機会をいただき、佐藤さんには心より感謝します。

(左から)佐藤 暁子氏、北村 導人

(左から)佐藤 暁子氏、北村 導人

主要メンバー

北村 導人

北村 導人

パートナー, PwC弁護士法人

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