佐藤暁子氏(ことのは総合法律事務所 弁護士)×北村導人対談【前編】

日本企業の「ビジネスと人権」の取り組みの現状と課題、そして高度化に向けて

  • 2025-10-21

2011年に国連で「ビジネスと人権に関する指導原則」が承認されて以来、企業の人権尊重の取り組みは世界的に拡大しています。日本政府もこの動きに続き、2020年に「ビジネスと人権に関する行動計画」(NAP)を、2022年に「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」を策定・公表しました。さらにEUにおいては、人権・環境に関するデューディリジェンスを義務付ける法制化が進められています。こうした中、日本企業にもグローバルスタンダードでの人権尊重の取り組みが求められると想定されますが、その取り組みはどのような状況にあるのでしょうか。

「ビジネスと人権」領域で長年活動することのは総合法律事務所 弁護士の佐藤暁子氏と、PwCでビジネスと人権に関するサービスをリードするPwC弁護士法人代表の北村導人(弁護士)が、日本企業の人権尊重に対する取り組みの現状と課題、そして今後の展望について議論しました。

(左から)佐藤 暁子氏、北村 導人

(左から)佐藤 暁子氏、北村 導人

海外から見た日本企業の取り組みの現状

北村:
佐藤さんが人権問題に関わるようになったきっかけは、2010年にカンボジアで日本法教育支援をしていた際に、街の中心部の開発が進む一方で、劣悪な状況で生活せざるを得ない社会的弱者が取り残されている状況を目の当たりにしたこと、さらにNPO法人の活動の一環でも同国を訪れ、現地住民の強制立ち退き問題や縫製工場の労働環境問題の調査などに取り組んだことだと伺っています。近年は政策提言や企業への助言活動を行う傍ら、国際連合開発計画(UNDP)のビジネスと人権のリエゾンオフィサーとしての活動にも携わっているとのことですが、具体的にはどのような取り組みをされているのでしょうか。

佐藤:
日本企業とそのサプライヤー企業に対して、人権デューディリジェンスの実施やサプライチェーン全体への人権尊重の浸透を支援するキャパシティビルディングを行っています。これは、持続可能な開発目標(SDGs)の達成にも貢献するものです。また、プロジェクトの対象国政府へのテクニカルサポートとして、国別行動計画の策定および実行支援も担当しています。これまではマルチステークホルダーでの取り組みがなかなか見られなかった「ビジネスと人権」の課題解決ですが、近年は少しずつではありますが、政府や企業、国内外のNGOが連携する段階へと移行したことを実感しているところです。

北村:
外国政府や海外のグローバル企業の取り組み状況を間近で見ている佐藤さんですが、日本企業の「ビジネスと人権」への取り組み状況をどのように評価しますか。

佐藤:
日本企業は必ずしも欧米企業と比べて取り組みが遅れているわけではないと思います。日本企業の社員の多くは真面目で、丁寧に仕事をします。その上、長く勤める社員が多く、企業もそうした社員を大切にするので、「人権」という言葉を使わずとも企業文化として強い信頼感が根付いている側面があると言えます。一方で、日本企業が「ビジネスと人権」に関して摂取する情報は基本的に日本語であるのが現状です。日本語と英語では「人権(ヒューマンライツ)」の言葉の社会の受け止め方が異なるため、「ヒューマンライツ」という言葉が本来の意味で理解されていなかったり、課題意識に対する温度感の相違が生じていると感じます。また、自社の取り組みを英語で発信する企業も少ないため、情報開示が足りていないことが、結果的に欧米企業と比較し、取り組みが遅れているという評価に繋がっているのが国外からは見えづらい状況があるのも事実だと感じています。

ことのは総合法律事務所 弁護士 佐藤 暁子氏

ことのは総合法律事務所 弁護士 佐藤 暁子氏

実効性のある人権施策を講じるために

北村:
日本でも上場企業を中心に、人権尊重の取り組みに向けた体制整備とその運用が進んでいます。日経連(日本経営者団体連盟)が2023年に行った第3回企業行動憲章に関するアンケート結果では、回答企業の76%が、従業員数5,000人以上の企業では95%が「指導原則に基づき取り組みを進めている」と回答しました。しかし現場からは「本当に人権リスクの軽減につながっているのか」「形式的な施策になっていないか」といった懸念の声も多く上がっています。例えば取引先にSAQ(自己評価質問票)を送付し、全て「〇」と回答されたとしても、実際にどのような取り組みが行われているのかが分からず、不安を感じている企業が多いのが現状です。

こうした状況を踏まえると、企業は、人権尊重の取り組みに関する一連のプロセスの導入という段階から、形式的なプロセスでは把握できない隠れた人権リスクの検出、効果的な是正策の策定・実施およびその有効な実際にリスクの軽減・防止につなげられているかという効果測定といった「取り組みの実質面」を重視するフェーズへ進む必要があると考えています。仮に企業が形式的なプロセスの導入にとどまり、実質面に踏み込まなければ、そのような取り組みは見せかけ(人権ウォッシュ)にすぎないと非難を浴びる可能性もあるでしょう。

佐藤:
実効性のある人権施策を講じる上では、まずはサプライチェーン上のどこに人権リスクが潜んでいるのかを明らかにしなくてはなりません。指導原則が人権デューディリジェンスを求めているのは、そのためです。ところが、実際に企業がその作業に取り組もうとすると、さまざまな課題があります。例えば、深刻な人権リスクがあるとされるサプライチェーン上流へのアクセスは簡単ではありません。また、強制労働や差別のように、企業単独では解決が困難な課題に直面し、できることがないのでは、とそこで躊躇してしまうケースもあります。

こうした状況を乗り越える上で最も大切なのは、「経営者のコミットメント」です。もし経営者が人権問題を単なるマネジメントリスクと捉えるならば、取り組みは表面的になってしまいがちです。経営上のリスクが低いと見なされれば、後回しにされることもあるでしょう。そうした企業では、体制整備の遅れやリソース不足が生じ、現場と本部の距離感が離れやすくなります。企業として実効性のある施策を講じることができないまま、現場が疲弊し、人権リスクが軽減されないという負のサイクルに陥ってしまうのです。

北村:
ここ数年、私自身「ビジネスと人権」の勉強会やワークショップを経営者や幹部向けに実施してきましたが、経営者の皆さまの理解はいまだ十分とは言えない状況にあります。経営者は、やはり人権尊重の取り組みにかかるコストに目が行き、またその取り組みの短期的な効果を期待しがちです。しかし、バリューチェーン上のステークホルダー(ライツホルダー)の人権リスク管理などの取り組みは、短期的な効果が生じるものではなく、むしろ自社が10年後、20年後、さらには永続的に社会に求められるための必須の活動であることを認識し、自社のサステナビリティ経営という観点から真摯にコミットしなければなりません。人権尊重への取り組みは「100点のない不断の終わりなき旅」ではありますが、ロードマップを策定し、継続的かつ着実に取り組んでいくことが不可欠です。

佐藤:
そうですね。欧州などでは「ビジネスと人権」に関する法令があるため、企業に外部的な要因として大きく働きますが、法制化されていない日本では、経営者自身の内的な動機付けがさらに重要になります。持続可能な社会が担保されなければ、企業は事業を継続することはできないのですから、「企業があって社会があるのではなく、社会があって企業がある」ということを、日本企業は改めて認識する必要があるように思います。特に大企業は、社会的に大きな影響力を持つことから、社会の行動規範を変えるために率先した行動が期待されます。賃金上昇を含めた労働環境の改善はその一つです。今このタイミングで、バリューチェーン上の人権尊重に対するイニシアチブを取ることは、自社ブランドへの信頼やステークホルダーからの信頼を得ることにもつながるはずです。ぜひ多くの大企業でリーダーシップを持ち、実効的な人権尊重の取り組みを推進してほしいと思います。

高度化のためには中小企業との対話によるアプローチが必要

北村:
企業が人権尊重への取り組みを実効的なものにするには、中小企業を含むバリューチェーン全体での取り組みが不可欠です。しかし中小企業においては、こうした施策に対する理解の不十分さや、予算・リソースの不足といった課題があります。佐藤さんは中小企業における取り組みについて、大企業、中小企業それぞれの立場でどのように対応すべきとお考えですか。

佐藤:
中小企業が大企業からSAQの送付を受けても、その内容をすぐに把握できなかったり、対応負担だけが増加していたりすると感じられるケースは確かに存在します。こうした状況を改善するためには、大企業からのサポートが不可欠です。大企業は現状リスクがあったとしても、ともに改善していくことが目的であることを中小企業に明確に伝え、適切な対応に向けて協働する必要があるでしょう。一方、中小企業は大企業との対話を通じて、人権尊重の取り組みに対するキャパシティを育てていく必要があります。

北村:
私も大企業のサポートは不可欠であると考えています。特に中小企業の経営陣や担当者に対しては、人権尊重の重要性を伝える説明会を開くことが効果的だと考えます。身近なところで従業員やその家族、取引先の従業員、さらには周辺住民にどのような影響が生じ得るかという点を丁寧に伝えることで、具体的なリスクのイメージや何のために行うのかという必要性の腹落ち感を持っていただき、前向きなアクションを促せる可能性が高まります。さらにSAQの契約条項ひな形を提供したり、SAQの相談対応体制がある点を伝えたりすることで、より安心感を与えられると思います。

加えて、形式的な対応で終わらせないためには、フィードバックの機会を設けることが重要です。人権尊重の取り組みに貢献した中小企業に対してはインセンティブを提供するなど、大企業や政府からの支援策もあると、さらにスピード感を持って普及できるのではないでしょうか。

佐藤:
そうですね。それに中小企業は、大企業と比べて人権問題に取り組みやすい側面もあります。近年の激しい環境変化の中で、新しい環境への迅速な適応や多様な人材確保の必要性を強く感じている中小企業は少なくありません。また、事業がコンパクトである分、大企業よりも経営者の目がバリューチェーン全体に行き届きやすいため、問題解決に向けてスピード感を持って取り組みやすいとも言えます。

こうした点を考慮すると、中小企業だからといって人権尊重の取り組みが必ずしも遅れているわけではないと思いますが、取り組みの実効性を高める上ではやはり大企業のサポートが重要です。中小企業における人権侵害リスクの一つとして、技能実習生といった移住労働者への対応が挙げられます。大企業は中小企業が技能実習生にどのような環境で働かせているか、就職に際しての斡旋手数料の支払いといった強制労働につながる要因がなかったかなど、十分かつ適切に把握し、必要な支援や改善を促す責任があります。また、そもそも大企業が適切な取引条件が提示しているか、中小企業における人権侵害を「助長」していないのか、責任ある購買行動の確保も重要です。こうした連携があって初めて、人権尊重の取り組みは実効的なものとなるのではないでしょうか。

北村:
前編は、日本企業の「ビジネスと人権」の取り組みの現状と課題、そして高度化に向けて、というテーマでお話をしましたが、ビジネスと人権の取り組みを日本そしてグローバルで見ている佐藤さんから多くの示唆をいただきました。普段日本企業との接点が多い私にとっては、海外の政府やグローバル企業から見た日本企業の取り組みの現状についてのお話は大変参考になりました。また、さらに取り組みを高度化し、実効性のあるものとしていくためには、やはり「経営者のコミットメント」が重要であるという点や、佐藤さんの「社会があって企業がある」ことを改めて認識すべきという指摘は経営陣の皆さまにとって重要な助言であると思いました。

さらに、バリューチェーンを構成する中小企業の取り組みについても、大企業と中小企業の間のコミュニケーションの重要性の他、中小企業においては、人材確保の必要性や事業の規模からスピード感を持って取り組みやすい部分もあるという点、特に外国人技能実習生をはじめとする外国人労働者の問題は大企業と中小企業とで連携しながら実効的な施策を打つべきなどの具体的なコメントは、日本企業に参考になる内容であったと思います。

PwC弁護士法人 パートナー 北村 導人

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北村 導人

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