(左から)金子 多希、青木 健 氏、中島 崇文
※本稿は日経ビジネス電子版に2025年5月に掲載された記事を転載したものです。
※法人名、役職などは掲載当時のものです。
自動車業界における排ガス規制の歴史に詳しい読者なら、米国の「マスキー法」という名称に聞き覚えがあるのではないだろうか。1970年に改正されたこの法律では、自動車の排気ガスの9割を削減するという困難な目標が定められた。この困難なミッションに対して、低公害のCVCCエンジンを開発し、世界で初めて適合したのが本田技研工業株式会社(以下、Honda)だ。同社の環境企画部で部長を務める青木健氏は、Hondaの環境対策について、このように説明する。
「当社が早くから環境を重視しているのは、創業者である本田宗一郎の『人の役に立ちたい』という思いが継承されているからです。世間でサステナビリティが注目されるようになったから取り組んでいるのではなく、自動車メーカーとして当たり前のように環境や安全の実現に挑戦してきた文化があると自負しています」(青木氏)
本田技研工業株式会社
コーポレート戦略本部 経営企画統括部 環境企画部長
青木 健 氏
この言葉を裏付けるように、同社は1992年、製品ライフサイクルの各段階で環境負荷を低減する基本姿勢を「Honda環境宣言」として整理・明文化している。日本でLCA(ライフサイクルアセスメント)が注目され始めたのが2000年代に入ってからだったことを考えると、Hondaがいかに時代に先駆けて環境負荷の低減に取り組んできたかが分かる。
さらに、こうした活動と並んで同社が注力しているのが情報開示だ。
「2050年のカーボンニュートラルに向け、環境負荷の低減は社会全体の課題です。当社の活動が世の中の要請と整合していることをしっかり表現するべきだと考えています」(青木氏)
PwCサステナビリティ合同会社 パートナーの中島崇文氏は、情報開示に対するHondaの姿勢について次のように語る。
「近年、開示要請に変化が見られ、気候変動や生物多様性といった個別テーマごとではなく、サステナビリティという観点で包括的な開示が求められるようになりつつあります。Hondaの方針は、まさにこうした社会的要請に合致した取り組みだと感じます」(中島)
(左から)金子 多希、中島 崇文
PwCサステナビリティ合同会社
パートナー
中島 崇文
PwCコンサルティング合同会社
シニアマネージャー
金子 多希
創業以来の思いを原動力に、Hondaは環境負荷ゼロ社会の実現を目指して「Triple Action to ZERO」というコンセプトを掲げている。同コンセプトは、「カーボンニュートラル」だけでなく、「クリーンエネルギー」と「リソースサーキュレーション」を加えた3つの取り組みが三位一体となっている点が特徴だ。
「当社が2011年に定めた『Honda環境・安全ビジョン』では、『自由な移動の喜び』と『豊かで持続可能な社会』の実現をうたっています。これを進めるにあたって何が必要なのかを突き詰めると、単にカーボンニュートラルだけを目指すのではなく、エネルギーや資源循環も連鎖させながら同時に取り組む必要があるという認識に至りました。これを基に策定されたのが『Triple Action to ZERO』(下記図)です」(青木氏)
CO₂排出量だけに着目するのではなく、クリーンエネルギー活用と資源の循環利用も同時に進めるのが「Triple Action to ZERO」の狙いだ。その延長線上には、生物多様性の保全も含まれるという
同社は、製品ライフサイクルにおける環境負荷への対応をマテリアリティとして集約しているが、その中には生物多様性の保全も含まれているという。こうした環境負荷ゼロを目指す取り組みの“深さ”について、PwCコンサルティング合同会社 シニアマネージャーの金子多希氏は、ホンダモビリティランドが運営する「モビリティリゾートもてぎ」を例に挙げる。
「モータースポーツの開催に加え、自然の保全活動も行っており、環境省の定める生物多様性の保全区域『自然共生サイト』としても認定されているのが特徴的な施設だと感じていました。『Triple Action to ZERO』や生物多様性も含めたマテリアリティについて知ると、すべてがつながっていることがよく分かります」(金子)
3つのサステナビリティ課題をまたぐ目標となっている「Triple Action to ZERO」の実現は容易ではない。
「カーボンニュートラルの取り組みは、地道な省エネ活動もあれば大きな投資を伴う事業もありますが、どのような取り組みならCO₂がどの程度削減できるのか、全体像がなかなか把握できないという課題がありました」(青木氏)
そこで、Hondaが着手したのが、削減効果を可視化する取り組みだ。
「下記図はバリューチェーン全体での温室効果ガス(GHG)削減計画の施策と実行可能性の関連性をビジュアライズしたもので、私たちは『地層図』と呼んでいます。可視化のためにはデータが必要です。しかし、拠点や部署ごとのデータ算定手法統一化や1次データ取得が困難な領域に対する適切な2次データの活用などの可視化に苦労しました。可視化後の目標達成の難しさは依然残っているのですが、少なくともこの地層図でどこを目指せば良いのかが見えるようになった点は大きな進歩だったと思います」(青木氏)
四輪製品のCO₂排出総量 削減計画
また、関係部門の相互連携では、環境の取り組みで陥りがちな「総論賛成・各論反対」の壁をどう乗り越えるかに腐心したという。
「進むべき方向やあるべき姿について経営層と議論を重ね、これまでの事業の延長線上にHondaの未来はないという意思統一ができ、各部門がアイデアを持ち寄って解決の道を探る体制づくりの最初のステップとなりました。Hondaはもともと難しいことに挑戦してきた文化があるので、経営層が本気度を示してくれたことが大きな推進力につながったと思います」(青木氏)
削減効果の可視化や関係部門の相互連携を実現したHondaの取り組みについて、中島氏は「企業が全社的な取り組みを推進する場合、往々にしてトップダウンになりがちです。Hondaはあるべき姿を再定義することで全社員の知恵を集めることに成功しました。どのようにして経営陣と現場との風通しを良くしているのでしょうか」と問いかける。
これに対して、青木氏は「部門横断タスクフォースチーム」の活動を挙げた。
「これは、カーボンニュートラルの取り組みのために各部署から集められた関係者によるプロジェクトチームです。環境分野に限らず、全社的な取り組みは単独部門だけで達成できるものではありません。そこで、カーボンニュートラルの専門部署をあえて設置せず、社内のキーパーソンを部門横断で集めたタスクフォースチームを組成しました。現場サイドの声を経営陣に伝えるために、現場との議論を重ね1つの提案にまとめる役割を担ったのが私たち環境企画部です」(青木氏)
この部門横断タスクフォースチームの活動では、経営会議とは別の場で経営層と直接議論や相談できる機会が設けられ、案件によって経営会議の場へ上程される。環境企画部を中心にまとめ上げた現場の思いを経営層が受け止め、具体的な方針として反映させる場として機能した。
「カーボンニュートラルについても年に数回は討議を行い、その場で見いだした方針を現場が実際の活動に持ち帰りました。“トップダウンとボトムアップの交差点”と言ってもいいと思います」(青木氏)
中島氏はHondaのこの仕組みを「部門横断タスクフォースチームが部門を超えた横のつながり、経営会議とは別の枠組みの場がトップと現場の縦のつながりと考えれば、縦も横も網羅した理にかなった組織体制だと思います」と指摘する。また、金子氏も自らのコンサルティング業務と比べながらこのように語る。
「コンサルティングでは通常、ルールや指標を用いた経営判断スキームの整備に努めます。これ自体は有効だと思いますが、外部環境が急速に変化する中で、様々な事情を考慮した判断スキームを整える時間はなく、経営層は即時の判断を求められるのが現実です。そのため、経営と現場をつなぐ場がタイムリーに設けられ、人間の知恵を活用することで、複合的な判断ができるのだろうと納得しました」(金子)
青木氏は自身が部長を務める環境企画部について、「環境に関する専門性で全社の活動をオーケストレーションする役割を担っていますが、実際の活動自体は現場の自主性に任せています。また、目標を現場に押し付けるのではなく、現場に入って一緒に実行することで、信頼関係を築くよう心がけています」と語る。
「コミュニケーションを重視し、ミドルマネジメントが現場の活動成果や問題意識を吸い上げ経営層に伝えることで、経営層も現場もやりやすいはずですし、サステナビリティの取り組みの推進力になっていると感じます」(中島)
戦略と組織を整え、環境対策を強力に推進するHonda。今後、同社はどうありたいのか。この問いに、青木氏は「フロントランナーでありたい」と即答した。
「当社が目指すのは、すでにやることが決まっていて同じ条件下で競争に勝つトップランナーではなく、まだ誰も挑戦していない道を切り開くフロントランナーです。当社の挑戦がきっかけで他社からも共感されて仲間が増え、他社も追随し、結果的に世の中が動く、そんな存在でありたいと思います」(青木氏)
Hondaは2023年、グローバルブランドスローガン「The Power of Dreams」を再定義し、新たに「How we move you.」との副文を加えている。Hondaのフロントランナーとしての挑戦が人の心を動かすことを示すメッセージだ。
「サステナビリティを実行する上で重要なのは、フロントランナーの成功が他社の成功を導き、環境価値と経済価値を創出することだと考えていました。今後の挑戦にも期待しています」(中島)
(左から)金子 多希、青木 健 氏、中島 崇文