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2022年2月に始まったウクライナに対するロシアの軍事行動は、両国の全面的な衝突に発展して5年目に入りました。ロシアに関してはさまざまな言説が飛び交っていますが、その多くは軍事・安全保障や外交に偏り、内政面の分析であっても、金融・貿易などの経済指標に依拠したものが大部分を占めてきました。
しかし、事態の長期化は、ウクライナはもちろんロシア側の市民生活をも水面下で蝕みつつあると指摘されています。ロシア軍の損失も少なくないと報じられる中、国内の医療体制には足下でも相当な負荷がかかっていると考えられます。また、出征兵士の大部分が若年層である以上、死傷者の増加は少子化や経済活動の担い手の減少を通じ、将来の人口動態や国家経済にも深刻な影響を及ぼすでしょう。医療・保健に関する政策文書や統計データを手掛かりとした検討は、要人の発言内容や経済指標などに基づく分析とは異なる視点で、ロシアが直面する課題や、今回の事態がロシア社会にもたらす中長期的な余波についての示唆が得られる可能性を秘めています。この論考では、これまで専門家の間でもあまり着目されてこなかったロシアの医療・保健政策に焦点を当て、侵攻前(2019年)と侵攻後(2025年)にそれぞれ策定された新旧の「ロシア連邦ヘルスケア発展戦略(Стратегия развития здравоохранения в Российской Федерации)」の比較を通じ、ロシアの現在地や同国が描いている将来の方向性を探っていきます。
ロシア連邦ヘルスケア発展戦略(以降「ヘルスケア戦略」と呼称)は、戦略的計画策定法1第19条が規定する「分野別戦略的計画文書」の一つです。医療・公衆衛生行政を所掌するロシア連邦保健省(Минздрав)は、他にもHIV対策や医学の発展など計5つの戦略文書を主管していますが、このうちヘルスケア戦略のみが大統領令(Указ Президента)による承認2であり、医療・保健政策の根幹としての位置付けが理解できます。
最初のヘルスケア戦略(以降「旧戦略」と呼称)は2019年に公表されました。そして旧戦略の計画期間最終年の2025年末には、2030年を期限とする後続のヘルスケア戦略(以降「新戦略」と呼称)が公表されました3。その構成は新旧とも共通で、以下の7章立てとなっています(カッコ内は筆者注)。
第Ⅰ章:総則
第Ⅱ章:国民の保健分野における国家安全保障の現状(評価)
第Ⅲ章:国民の保健分野における国家安全保障への脅威と挑戦
第Ⅳ章:ロシア連邦におけるヘルスケア発展の目標・主要課題・優先領域(解決策)
第Ⅴ章:国民の保健分野における国家安全保障の状況評価の主な方法(指標)
第Ⅵ章:戦略実行の主要段階・期待される成果(目標値)
第Ⅶ章:戦略実行の方法・本戦略に定める施策の財源確保
一見して「国家安全保障(национальная безопасность)」の文言が目立つのは、ヘルスケア戦略の第1条で「この戦略は、国家安全保障の確保を目的として策定された」と謳われているためです。ロシアは伝統的に国防国家的性格を有すると時おり指摘されますが、これはウクライナ侵攻前の2019年に作られた旧戦略でも同じです。日本にも「健康・医療戦略」4がありますが、こちらは「健康長寿社会の形成」を最終目的としており、両者は名称こそ似ているものの、立脚する思想や狙いは異なると言えます。
ここでは、章ごとに内容を見比べることで、両戦略の相違点を浮き立たせていきます
(表1~5の項目は、比較の都合上、原文から並び順を入れ替えています)。
表1:新旧戦略における現状評価の比較
表2:新旧戦略における脅威認識の比較
表3:新旧戦略における挑戦認識の比較
表4:新戦略が定める主要課題・解決策(旧戦略からの変更点を含む)
表5:新旧戦略における指標・目標値の比較
全体を通じた比較からは、新戦略ではほとんどの疫学指標が後景に退き、代わって医療供給に関する事項が目立つようになっています。時間軸に沿えば、まず政策的介入による医療供給の改善が先行し、やや遅れて集団の健康状態そのものを示す死亡率や有病率が低下します。新戦略での指標・目標値の軸足が、政策対応による操作が比較的容易な前者の供給面に移っているのは、現下の情勢が当面続くとの想定を反映したものと見る向きがあります。
これは(1)戦死者の増加、(2)中長期的な人口減少の二側面から観察されます。
(1)各種の死亡率は、新戦略の指標・目標値だけでなく現状評価でも触れられていません。戦死者数に関するロシア側の発表は、侵攻開始からの半年間に6,000名弱6とした2022年9月以降は確認できませんが、2026年1月の米国・戦略国際問題研究所(CSIS)の調査結果によれば30万人に上ると推計7されています。
特に、生産年齢人口の死亡率や平均寿命は、戦死による超過死亡の増加を直接反映します。ロシア連邦国家統計庁(Росстат)は、2025年4月を最後に人口動態統計の月次公表を中止し8、同年12月の新戦略も死亡率には触れていません。これは、実際の戦死者数が明らかになることで、国内外に与える様々な影響を考慮したものと言われています。
(2)開戦以来、徴兵忌避やロシアの将来への悲観などを動機に、数十万人のロシア人が祖国を後にしたとされます。その一部は後に帰国したとはいえ、国外脱出による生産年齢人口の減少は、(1)で述べた戦死者数の増加も相まって急激な少子化や、長期的には国家の経済力低下などをもたらす、旧戦略にある「脅威・挑戦」となり得ます。しかし、新戦略には生殖年齢を対象とした健診やケア、医療サービスの整備などの多子化に関する施策が新たに盛り込まれた一方、旧戦略に規定されていた「人口増加」につながる具体的な数値目標は設定されていません。
ソ連時代末期のアフガニスタン戦争(Афганская война)や、二度にわたるチェチェン戦争(Чеченская война)を経験したロシアは、障害を持つ帰還兵の存在が比較的可視化された社会であると言われています。しかし、4年以上続くウクライナとの戦闘により日々生じる負傷兵の増加は、改めてこの課題と長期にわたり向き合うことを国家と国民の双方に要求しています。
新戦略は、2019年から5年間での障害者の割合の低下を喧伝しています。しかし実際の障害者数は、侵攻が始まった2022年末を底に2024年末までの2年間で19万人増加しているばかりか9、年齢階層別に見ると生産年齢10での増加幅が最大(+27.7%)となっており11、戦傷者の増加から目を逸らす側面は否めません。旧戦略とは異なり、新戦略が障害に関する指標や目標値に触れない一方、新たな脅威として外傷を取り上げ、またリハビリや義肢装具提供の対象に「特別軍事作戦参加者(участники спецальной военной операции)」を明記したのは、帰還兵に対する公的扶助の、ロシア政治における優先度の高まりを示唆していると考えられます。同様に、保養・療養施設での治療プログラム改善についても、関連法令12は戦傷病者を一般の障害者に先んじて利用対象と規定しており、同じく復員兵対策の文脈で捉えることができます。
また、兵士は経済的に貧しい地域から集中的に徴募されていると言われ、障害者の増え方にも地域格差があると推定されます。実際に2022年から2024年の2年間で、モスクワとペテルブルクをそれぞれ擁する中央・北西の2連邦管区では障害者の割合が低下する一方、その他の6つの連邦管区では増加しており、特に北カフカス連邦管区では最大の+5.8%を記録しています13。2025年後半から、ロシアでは前線から戻った元兵士による凶悪犯罪の増加が取り沙汰されるようになっていますが14、医療アクセス整備の優先対象として「へき地」を指定したのは、治安の悪化に端を発する政情の不安定化を防止すべく、医療・保健政策の面からも障害を負った除隊者への対応が急務となっているゆえ、との指摘もあります。
制裁下にあって、旧戦略が掲げた医療輸出はもとより、西側諸国からの自由な輸入や技術供与なぞ望むべくもない今、ロシアは原材料・製品のみならず製造技術を含め、医薬品や医療機器の確保に必要なあらゆる要素の脱外国依存を強調しており、とりわけ戦場での迅速な救命に不可欠な輸血(血液製剤)の増産・確保が明示されています。同時に、新戦略が以前と異なり、不安定な経済状態や非常事態下での遂行を前提としている点からは、ロシアは少なくとも新戦略の終期である2030年頃までは自国を取り巻く国際政治環境の緊張緩和を想定していない可能性があります。また、境界地域研究の分野では、ロシアが自国の支配下にある紛争地域の住民にロシア旅券の交付を促進する「パスポータイゼーション(passportisation)」が知られていますが15、ウクライナ東部4州の保健医療システムをロシアの制度下に組み込む方針が主要課題として記載されたのは、受診時の身分証明に必要なロシア旅券なしでは医療にアクセスできない状況が作出されている点16を踏まえ、ロシアによる占領地域の統治強化の動きと関連付ける解釈が見られます。さらに、新戦略の実行は「必要な水準」の財政支出を前提としていることからも、ロシアは医療・保健分野への国庫支出を削ってヘルスケア戦略の目標達成を放棄し、民生分野に影響が及ぼうとも、ウクライナ侵攻の成功を追求する構えとの見方も一部の研究で示されています。
さりとて、継戦のためには国民の「健康」と「協力」も不可欠であり、政府はこの限りにおいて福祉国家的な配慮を打ち出しています。言い換えれば、新戦略が目指しているのは、受益者たる国民に対しては皆保険・無償医療の基盤強化により、医療費の自己負担増による体制への不満蓄積を回避しつつ、健康意識の向上と具体的な行動を求めるとともに、医療提供側には政府施策や無償医療への参加を事実上義務付けて自由診療への流出を抑止するとの、戦時を前提としたロシア社会の、医療・保健政策を通じた安定化と言えます。前項で触れた障害者・へき地対策についても、その一つの手段として整理が可能です。
ロシアによるウクライナ侵攻の開始から4年近くが過ぎた2025年末に大統領令により発効した新ヘルスケア発展戦略は、旧戦略と比べても医療・保健政策を「国家安全保障の確保」に整合させようとする性格がいっそう色濃くなっています。他方、新戦略が触れなかった事項も含め、その記述からは、旧戦略が掲げていた福祉国家的な達成目標と現実とのギャップや、国家としての長期的な展望に対するロシア自身の課題意識の表出を指摘する見方もあります。
執筆の時点で、ロシアとウクライナの間に講和や戦闘停止に向けた実質的な動きが進展したとの報道はみられません。同様に、日本や西側諸国とロシアとの関係正常化にも、まだまだ時間を要すると考えられます。しかし、ウクライナも日本もともにロシアが隣国であるとの地政学的な現実がある以上、ロシアに関する多角的な分析の必要性が減ることはないと思われます。この論考が、和平の実現に向けた国際社会からロシアへの接し方や、ひいては今後のウクライナ・ロシア関係や日露関係のあり方を考える上で、現状の深掘りや新たな視角からの考察の一助となることを願います。
(注)本文中に引用した数値は北方領土およびロシアが違法に「併合」したウクライナ国内の地域を含む可能性があるが、本論考の記載がこれらに対する日本の法的立場に影響を与えるものではない。
1 N 172-ФЗ «О Стратегическом Планировании в Российской Федерации»
2 その他の文書はロシア政府(Правительство)の指令(распоряжение)により承認
3 Указ Президента Российской Федерации от 08.12.2025 г. № 896
4 令和7年2月18日閣議決定
5 Ⅵ章・第36条
6 Россия потеряла 5937 человек в спецоперации, заявил Шойгу 21 сен — РИА Новости
7 Seth G. Jones, Riley McCabe. Russia’s Grinding War in Ukraine:Massive Losses and Tiny Gains for a Declining Power. CSIS Briefs. January 2026
8 Росстат. Доклад «Социально-экономическое положение России. 2025»
9 Росстат. Численность инвалидов по группе инвалидности в разрезе субъектов Российской Федерации. обновлено 04.04.2025
10 男性16~59歳、女性16~54歳(ただし旧戦略期間中は男性16~65歳、女性16~60歳)。Приказ Росстата от 17.07.2019 N 409 "Об утверждении методики определения возрастных групп населения"
11 Росстат.Распределение инвалидов по полу и возрасту. обновлено 04.04.2025
12 N 178-ФЗ «О государственной социальной помощи» Статья 6.1.
13 Росстат.Численность инвалидов по группе инвалидности в разрезе субъектов Российской Федерации. обновлено 04.04.2025
14 Вёрстка.Вернувшиеся. Как ветераны войны в Украине убивают и калечат россиян Более тысячи человек стали жертвами вернувшихся с фронта военных. 09 декабря 2025
15 Nagashima, T. (2019). Russia’s Passportization Policy toward Unrecognized Republics: Abkhazia, South Ossetia, and Transnistria. Problems of Post-Communism, 66(3), 186–199.
16 Khoshnood, Kaveh, Nathaniel A. Raymond, and Caitlin N. Howarth et al., Forced Passportization in Russia-Occupied areas of Ukraine.” 02 August 2023. Humanitarian Research Lab at Yale School of Public Health:New Haven.
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