2025年6月の韓国大統領選挙で李在明氏が当選した背景には、前年12月に非常戒厳を宣布し、その後弾劾・罷免された尹錫悦前大統領や旧与党「国民の力」に対して、韓国国民が糾弾したという側面が投票結果に強く表れたと言えます。一方でその投票行動は、世代間、地域間、若年層の男女間などで対照的なものとなり、政治信条を巡る国内対立が激化し、韓国社会の分断が深刻化しています(図表1)。
図表1:2025年韓国大統領選挙の性別・年代別出口調査結果
こうした社会分断の背景には、韓国社会の構造的な問題と、無党派層や中間層を取り込む中道政党の不在があると考えられます。韓国社会には、先進国化に伴う経済成長の鈍化や少子化、激化する受験戦争と若者の就職難、不十分な社会保障制度と高齢者の貧困化、男女の所得格差、男性のみに課される兵役義務といった構造的な社会問題が山積しています。図表1から分かるとおり、特に若年層の女性や40~50代に革新派の支持層が多い一方で、若年層の男性と高齢者層では保守層が多いことが分かります。また、李大統領が所属する左派で革新派の「共に民主党」と、尹前大統領が所属していた右派で保守派の「国民の力」という政治信条が対極的な二大政党が対立軸として機能する一方で、中間層や無党派層をうまく取り込める中道政党が存在しない点も、社会分断を助長する原因となっています。
上述の構造的な社会問題は一朝一夕で解消できるものではなく、社会分断や政治上の対立は今後も深刻化し、韓国の政治情勢の混乱リスクは今後も高い状態が続くと考えられます。大統領や与野党の政策や主張は、国民の支持がより得られるものや、対立する政党や候補者の支持率を低下させるものに重点が置かれるでしょう。今回の大統領選挙でも主要な争点にならなかった米韓同盟や北朝鮮政策、日韓関係といった外交政策は、保守・革新いずれの政権が今後誕生した場合においても優先度は相対的に低いものとなり、国内にアピールするための外交、言い換えれば“国内政治のための外交”が構造化する懸念が高まります。その最たる例が日韓関係です。慰安婦や元徴用工問題、竹島問題といった保守・革新、性別、年代、地域を超えて国民が同じ方向を見ることが可能な外交問題は、国内の政治状況に応じて「政府が国民に支持を訴えることができる手段」として活用される場面が今後さらに増えるとみられます。また、大きな国際舞台や大国との交渉などを通じて、国内に向けて成果や活躍をアピールするための内向きな外交の機会が増えるでしょう。
尹前大統領のような弾劾・罷免がない限り、李大統領の任期は2030年までの5年間です。李大統領の目下の課題は、自身が抱える公職選挙法違反など5件の裁判に起因する司法リスクであり、対応を見誤ると、ハネムーン期間と呼ばれる就任直後であっても急速に支持率が低下する可能性があります1。韓国の大統領は、内乱罪等を除いて起訴対象にならない不訴追特権を有するものの、大統領就任以前に起訴された刑事裁判を続行するべきかどうかは憲法でも規定されておらず、見解が分かれています。与党「共に民主党」は、大統領在任中の裁判を停止するため法案の可決を狙っており、こうした司法を掌握しようとする動きが国民の不満を高め、急速な支持率低下を招く可能性もあります。司法リスク以外にも、国政運営経験がなく経済政策にも精通していないといった理由で李大統領を支持せず反感を持つ国民も多く、低迷する経済や拡大する経済格差に対して有効な解決策を示し、それを確実に実行できるかが問われます。
困難な内政状況を背景に、李大統領は大国との交渉や大きな国際舞台などで成果を挙げるような、国内にアピールするための外交を優先するでしょう。李大統領は就任当初から石破首相や米国トランプ大統領、中国の習近平国家主席とそれぞれ電話会談し、初外遊先としてカナダでのG7サミットの舞台を選びました。
李大統領は米韓同盟や日米韓3カ国での安全保障協力関係を重要視しながらも、尹前政権期に関係が悪化した中国や北朝鮮といった専制主義寄りの国家との関係改善を試みるとみられます。米国や日本との安全保障協力を基盤として中国をけん制し、北朝鮮の脅威に立ち向かうという姿勢が鮮明だった尹前政権期から外交方針が転換することで、北東アジア全体の安全保障環境が変化する可能性があります。
中国について、李大統領は、尹前大統領の外交が中韓関係を悪化させたとして批判し、対話のドアをもう一度開けなければならないと主張してきました2。米韓両政府が2016年、在韓米軍へ地上配備型ミサイル迎撃システム(THAAD)の配備を決定したことを受けて冷え込んだ中韓関係は、再び転換点を迎える見通しです。トランプ大統領の就任によって米中対立がさらに激化する中、中国にとっても韓国を自陣営に引き込むことは、米国に対するけん制の観点で重要です。
米国のトランプ大統領は、かねてより在韓米軍の縮小や撤収に意欲を示してきました。在韓米軍は北朝鮮の軍事行動抑止だけでなく、東シナ海や南シナ海、台湾海峡への干渉を試みる中国をけん制する役割を持っています。トランプ大統領は2025年4月、韓国との関税交渉において、在韓米軍駐留経費負担問題を貿易交渉とパッケージで議論する考えを示しました3。安全保障面で依存する米国と、経済面で関係の深い中国のはざまに立つ中、李大統領がどのような立ち回りを行うか注視する必要があります。
一方で北朝鮮との関係改善は、李大統領にとってさらに困難な外交課題となるでしょう。金正恩(キム・ジョンウン)総書記は2024年10月、憲法を改正して韓国を「敵対国」と定義しました。南北の対話は絶たれた状況であり、李大統領が対話を呼びかけたとしても、金総書記が容易に応えることはないでしょう。金総書記は、尹前政権が進めた日米韓3カ国による安全保障協力を非難しています。トランプ大統領が1期目と同様に、金正恩総書記との対話再開に乗り出すといった国際情勢の変化がない限り、南北関係は動かないとみられます。李大統領は日米韓枠組みと北朝鮮政策とのはざまで難しい舵取りが求められます。
戦後最悪と言われるほど日韓関係が冷え込んだ文在寅政権期(2017~2022年)を経て誕生した尹錫悦政権期(2022~2025年)において、日韓関係は大きく改善しましたが(図表2)、李大統領の誕生を受けて、再度日韓関係が大きく転換する可能性があります。
図表2:日韓関係の経緯
李大統領は、就任後しばらくは対日融和姿勢を続けるものの、国内政治や自身の実利に基づき対日政策を局面に応じて変更する、実利主義に基づいた対日外交を展開するとみられます。過去には日本に対して厳しい発言を行ってきたことから、対日強硬派と分析される一方で、大統領選挙キャンペーンにおいては、支持を呼び込みたい中間層や無党派層、特に対日感情が良い若年層を意識し、日本に対する厳しい表現を避けた上で、政策公約集4においても対日強硬的な文言はみられませんでした。李大統領は、必ずしも反日を信条とする政治家ではないものの、経済・外交で成果が出ずに国民の不満が高まった場合や、不祥事が発生して支持率が低下した場合など、自身に追い風を吹かせたい局面で対日政策を政治利用する可能性が高い政治家であるといった意見は、筆者が韓国の有識者にヒアリングした際にも多く聞かれました。
こうした対日政策の転換や断絶は、先述の韓国社会の分断の根本原因が解消されない限り、先々の政権においても保守・革新を問わずみられることになるでしょう。
李大統領が対日強硬路線に舵を切り、世論や司法が同調した場合は、文在寅政権期のような日韓関係に戻るという事態も想定した上で、韓国にエクスポージャーを持つ日本企業は自社のリスク管理を行うことが求められます。自動車、化粧品、衣料品、ビールなどの酒類、飲食店、インバウンドビジネスといった、韓国の消費者に直接製品・サービスを届けるB2Cビジネスを行う日本企業においては、日韓関係が悪化した場合は、特に影響が出ることが懸念されます。
韓国ではこれまでも、日本との関係が悪化した際に日本製品の不買運動が起こり、日本企業に影響を与えてきました。直近では文在寅政権期において、元徴用工訴訟問題や韓国海軍レーダー照射問題の発生を受け、日本政府が輸出管理上の優遇対象国から韓国を除外し、韓国向け半導体材料(フッ化ポリイミド、レジスト、フッ化水素の3品目)の輸出管理の運用見直し5を行ったことを契機に韓国国民の反日感情が高まり、2019年に大規模な日本製品不買運動(ノージャパン運動)が発生しました。
その後の尹前政権期では、岸田前首相との間で首脳同士のシャトル外交が再開され、韓国の対日政策の変化が韓国国内での日本に対するイメージ改善にもつながり、日本食や音楽を中心に韓国の若者の間で「イエスジャパン現象」が巻き起こりました。こうした形で、大統領の信条やイデオロギーによって対日政策が大きく変動することで、国民の対日感情も影響を受ける傾向がある点に留意が必要です。
一方で文在寅政権期と比較すると現在は、大統領が容易に対日強硬路線に舵を切りにくくなっています。与野党ともに支持を集めたい無党派層の若年層に親日派が増加していることや、中国の台頭や北朝鮮の核兵器開発、トランプ政権の孤立主義・保護主義的政策や、米中対立の激化といった、韓国を取り巻く安全保障環境の不安定化や地政学的リスクの高まりに対して、日韓両国が協力して対応することの重要性が韓国にとって高まっていることがその背景にあります。こうしたことからも、李大統領が安易に日韓関係悪化を招くような言動を起こせない状況が作られつつあると言えますが、これまで説明した理由から、自身の支持率が低下した局面で対日政策を転換する可能性は残ります。
PwC Japanグループが2025年6月に実施した「企業の地政学リスク対応実態調査 2025」によると、李在明氏が当選した場合に自社事業に影響があると考えられる対外関係の変化として、日本企業の30.1%が「日韓関係の悪化(歴史・領土問題再燃、日本製品不買運動、日本政府による輸出規制強化など)」と回答し、設問の中で最多となりました。その他「対米関係悪化(駐留米軍の韓国からの撤退、日米韓協力体制弱体化など)」(18.9%)、「北朝鮮との融和路線回帰に伴う朝鮮半島情勢の変化」(16.3%)などを懸念する声がありました。多くの日本企業にとっても、韓国の外交の変化に伴う自社影響が懸念材料であることが分かります。
図表3:李在明氏が当選した場合に自社事業に影響があると考えられる対外関係の変化
これまで政治面で日韓関係が悪化した時期においても、経済面では両国企業が貿易や投資を通じて相互に依存関係を深め、両国間でビジネスが完全に途絶えることはありませんでした。今後また日韓関係が冷え込む時期を迎えたとしても、強い結び付きを根本から揺るがす事態は想定されないでしょう。
特に半導体産業においては、日本が輸出する半導体製造装置や素材を活用し、韓国の大手企業が製造した半導体製品を世界市場に輸出するなど、両国企業の相互補完関係が形成され、世界市場で高いシェアを誇っています。
2019年に日本政府が韓国向け半導体材料の輸出管理の運用見直しを行った時期においても、韓国企業は日本製品を求め続けました。日本企業の高い技術力や品質管理を代替できる企業を探すことは容易ではなく、韓国において他国企業からの輸入や自社生産への転換が進まなかったことが背景にあります。
※本文中の意見や見通しは著者個人の見解であり、PwCの公式見解ではありません
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