海外事例から考える、文化政策における社会的価値のあり方

  • 2026-05-22

はじめに:文化政策における「社会的価値」の台頭

現代の公共政策において、社会的価値(Social value)や社会的インパクトの可視化・評価は避けて通れないテーマとなっています。限られた財源の中で公共サービスの効果を最大化するためには、その事業が社会にどのような変化をもたらしたのかを客観的なエビデンスに基づいて説明する責任、つまりアカウンタビリティが強く問われているからです。

この潮流は、文化芸術やミュージアムを対象とした文化政策分野も例外ではありません。かつて文化芸術は、その内発的な価値ゆえに支援されるべきだという「芸術のための芸術(Art for art's sake)」という論理で語られることが多くありました。しかし現在は経済波及効果にとどまらず、社会包摂やコミュニティの結束、個人のウェルビーイング向上といった、多様な課題解決に寄与する「手段としての価値」が政策的に重要視されています。このような手段的価値を重視する傾向は、文化芸術の本質的価値を軽視するものではなく、むしろこれまで文化芸術と接点が少なかった人々や、政策決定に関わる多様なステークホルダーに対してその価値を分かりやすく伝えるものであり、ある意味、効果的な「価値の可視化手法」とも言えます。

本コラムでは、文化政策分野の社会的価値について、アカデミックな理論背景を整理した上で、諸外国で先行する評価メカニズムを概観します。そして、日本の文化政策が直面している課題を明らかにし、今後の評価・マネジメントのあるべき方向性を考察していきます。 

第1章 理論的背景:NPMとEBPMがもたらした変革

文化政策に社会的価値の評価が導入された背景には、行政経営の大きなパラダイムシフトが存在します。その端緒は、1980年代以降に世界的に広まった「新公共経営(New Public Management:NPM)」にあります。特に英国では、1979年に誕生したサッチャー政権下での緊縮財政により、文化芸術領域にも目に見える成果が求められるようになりました。これにより、文化芸術の手段としての価値を重視する「道具主義的な文化政策」が進められることとなったのです

その後、1997年に発足したブレア政権下で「エビデンスに基づいた政策形成(EBPM)」が導入されたことで、政策決定における客観性が不可欠になります。1999年の白書「近代化する政府」では、成果を重視する傾向が明確化され、省庁ごとに具体的な数値目標を伴う業績管理が課されるようになりました。

文化政策もこのEBPMの枠組みに組み込まれ、財務省の政策評価のガイドラインに基づく「ROAMEFサイクル」の適用が求められるようになりました。具体的には、根拠(Rationale)→目標設定(Objectives)→事前評価(Appraisal)→モニタリング(Monitoring)→事後評価(Evaluation)→フィードバック(Feedback)の6段階で政策の実施と改善を管理するフレームワークです。つまり、文化政策においても、事業の実施そのものを目的とするのではなく、社会的アウトカムの創出を志向する戦略的投資という側面が強く認識されるようになったのです。

第2章 諸外国における評価の実装

諸外国ではこうした理論的背景の下、文化政策に社会的価値評価を組み込むための具体的なフレームワークが構築され、現在も進化を続けています。ここでは英国、オーストラリア、カナダ、シンガポールの事例から、評価システムの実装状況を解説します。

(1)英国:評価の制度化から「投資原則」に基づく伴走支援エコシステムへ

英国は、文化政策における社会的価値評価のパイオニアです。ブレア政権時代にはDCMS(デジタル・文化・メディア・スポーツ省)主導で、優先グループの来館者数増加など、社会包摂に直結する定量的な業績指標が設定されました。2010年代以降は、財務省の政策評価ガイドライン「グリーン・ブック」において「主観的ウェルビーイング」が評価対象となるなど、国を挙げた制度化が進みました。この過程で「What Works Centre for Wellbeing」のような独立機関が設立され、文化がもたらすインパクトに関する膨大な研究統合が行われ、エビデンス構築の初期の土台が築かれました。なお同機関は一定の役割を終え、2024年に活動を終了しています。

現在の英国における重要な動向は、評価の位置づけそのものの転換にあります。すなわち、事業終了後に成果を測る「事後的な測定」から、セクター全体の行動変容を促すための「戦略的マネジメントツール」へと進化しているのです。その中核を担うのが、アーツ・カウンシル・イングランド(ACE)が策定した10カ年戦略「Let's Create ! Strategy 2020-2030」です。

ACEは、資金配分の評価基準として「包摂性と関連性」「環境への責任」「ダイナミズム」「野心と質」という4つの投資原則(Investment principles)を設定しました。これは芸術的卓越性だけでなく、組織がいかに社会と結びつき、社会的価値を創出しているかを問うものです。これらの原則の実現のために、リレーションシップマネジャーと呼ばれるACEの専門職がそれぞれの助成先の担当として配置され、定期的なモニタリングが行われます。さらに、外部からの支援の仕組みとして、ACEはIPSO(Investment Principles Support Organisations:投資原則サポート組織)というカテゴリーを支援対象として設けました。IPSOは、文化団体が自らの社会的インパクトを可視化し、ガバナンスを改善するための伴走支援や政策支援を行います。単に指標を押し付けるのではなく、評価・改善システムを業界全体のエコシステムとして実装している点は、日本の文化行政にとっても示唆に富む実践例と言えます。

(2)オーストラリア:多角的視点による「公共価値」の測定

オーストラリアでは連邦政府方針の下、州政府ごとに社会的インパクトの測定に向けた独自の取り組みが進められています。特に西オーストラリア州における「公共価値評価フレームワーク(Public Value Measurement Framework:PVMF)」は、文化セクターの価値を多角的に評価する重要な評価手法と言えます。

PVMFの最大の特徴は、評価を単一の視点に依存させない点にあります。具体的には以下の3つを複合的に組み合わせます。

  1. 自己評価:文化団体自らが設定した目標に対する達成度と内省
  2. 専門家評価(ピアレビュー):第三者の専門家による、プログラムの芸術的な質や専門性の評価
  3. 観客・コミュニティ評価:実際に参加した観客や地域住民が感じた価値や満足度、行動変容の測定

これらを統合することで、行政による一方的な予算査定の論理に偏ることなく、現場の専門性や市民の実感をバランスよく反映した「公共価値」の測定が可能となっています。このような多面的な評価の考え方は、後の英国ACEによる評価システムである「インパクト・アンド・インサイトツールキット(IIT)」に引き継がれています。IITもPVMF同様に、自己評価と観客評価、ピアレビューを組み合わせた評価の仕組みとしてシステム化され、現在もACEの助成を受けている団体で実際に運用されています。

(3) カナダ:定量的指標の蓄積と「定性的インパクト」の探求

カナダでは、1970年代から文化の価値を統計的に測定する取り組みが行われてきました。2004年には「カナダ文化統計フレームワーク(CFCS)」が策定され、健康、ウェルビーイング、ソーシャルキャピタルへの貢献を統計的指標で評価する仕組みが確立されました。連邦政府や州政府は、文化への参加が国民のエンパワーメントや社会的結束の構築に直結するという確固たる認識の下、政策を展開しています。

一方で、経済効果や参加者数などの定量データだけでは捉えきれない文化の価値にも眼差しが向けられるようになりました。その結果、2019年にカナダ・カウンシル・フォー・ジ・アーツが「定性的インパクト評価フレームワーク」を策定するという独自の展開を見せています。

このモデルでは、インパクトを「アップストリーム(アーティストや文化団体への直接的影響)」と「ダウンストリーム(鑑賞者や地域コミュニティへの波及効果)」に概念的に区分しています。例えば、助成金によってアーティストのスキルが向上し(アップストリーム)、その結果として地域住民のアイデンティティ形成や社会的結束が強まる(ダウンストリーム)といった変化です。個人の体験やコミュニティの変容をストーリー・ナラティブとして深掘りし、中長期的な便益を見いだすこの試みは、文化芸術の価値を可視化する新たな評価手法として注目に値します。

(4)シンガポールと国際動向:ステークホルダー参加と合意形成

シンガポールでは多面的な評価だけでなく、政策立案時点での合意形成を重視し、長期的な芸術戦略の策定をアーティストや地域住民との対話やワークショップなどを通した合意形成の下で実施しています。このように多くの国で、行政がトップダウンで評価指標を決めるのではなく、積極的にステークホルダーを参加させ、合意の形成を通じて文化芸術領域の価値を向上させるアプローチがすでに始まっています。

この「社会との関係性の中で文化を評価する」という潮流は、国際レベルでも進められています。ユネスコが2019年に発表した指標「Culture 2030 Indicators」においては、文化を「環境とレジリエンス」「知識とスキル」「包摂と参加」といった広範な社会領域の指標として測定する方法が示されています。もはや文化芸術は独立した領域ではなく、持続可能な社会を構成する不可欠な要素として、自らの立ち位置と貢献を積極的に証明していく段階に入っているのです。

第3章 日本の現状と課題:仕組みへの落とし込み

日本においても文化庁の「文化芸術基本計画」の中で、文化芸術が観光、まちづくり、福祉、教育など多様な分野と連携し、社会的価値を創出することが明確にうたわれています。

しかし、大きな課題は「理念を具体的な仕組みに落とし込むプロセス」にあります。諸外国が数十年かけて構築してきたような文化領域特有のEBPM体制や、定性・定量を統合的に扱う評価フレームワークは、日本においてはいまだ整備の途上にあります。

現状の評価は、入場者数や直接的な経済波及効果といった「測りやすい指標」に偏りがちです。地域コミュニティの再生や人々の幸福度の向上といった、文化芸術が本来持つ「目に見えにくい社会的価値」を客観的に証明し、政策的な裏付けとするための具体的な手法の確立が、今まさに求められています。

第4章 今後の政策的な課題解決の方向性

日本が今後、文化政策を通じて実効性のある社会的価値を創出していくためには、以下の3つの方向性での課題解決が不可欠であると考えられます。

1. 日本型ロジックモデルの設計と定着

日本においても諸外国で積極的に導入されているように、文化芸術の評価サイクルを文化政策の改善に活用することが必要です。すでに一部の政策では導入が進められていますが、日本の文化政策では、英国のROAMEFサイクルや投資原則に見られるような、文化政策全体を貫く戦略やロジックが見えづらいのが現状です。そのため、「どのような投入が、どのような活動を経て、どのような社会的変化をもたらすのか」を構造的に示し、それを共通言語として事業評価に活用するロジックモデルの導入が重要になります。つまり、文化政策の社会的な意義を政策の評価サイクルに実装する仕組みづくりが求められます。

2. 定量・定性ハイブリッドによる評価手法の開発

定量の統計的な数値と、定性的な利用者の声や行動変容の記録を組み合わせた、多面的な評価手法の標準化が必要です。特に、カナダの事例のようなナラティブを用いた評価を公共部門の意思決定プロセスにどのように組み込んでいくかが、今後の重要なテーマとなるでしょう。

3. 多様な主体による「合意形成」のプロセスデザイン

文化政策の社会的意義を確かなものにするためには、行政、芸術家、住民、民間企業などの多様なステークホルダーが参加し、どのような価値を重視すべきかをともに考える「対話の場」の設計が重要です。この合意形成のプロセスそのものが、地域のソーシャルキャピタルを醸成し、政策の持続可能性を高めることにつながります。

終章:持続可能な文化政策に向けて

諸外国の事例が示すように、文化政策に社会的価値を組み込んでいくことは世界的な潮流であり、公共部門の透明性と効果性を高めるために不可欠なプロセスです。日本においても、理念を具体的な「仕組み」へと昇華させ、文化芸術の力を社会の隅々にまで届けていくことが期待されています。

PwCコンサルティングでは、こうした政策的な課題解決のパートナーとして、専門的な知見と客観的な分析力を提供しています。具体的には、文化事業のロジックモデル設計や社会的インパクト評価の枠組み構築、さらには多様なステークホルダーとの合意形成プロセスの設計まで、政策の「理念」を実行可能な「仕組み」へと落とし込む一連のプロセスを伴走型で支援しています。文化芸術が持つ真の価値を社会の共通基盤として定着させるため、国内外の知見を生かしながら、行政・文化セクターとともに取り組んでいきます。


引用文献

小林瑠音「英国における芸術の社会的インパクト評価に関する基礎的考察 : 政策的背景と評価手法」『文化経済学』第11巻, 第1号, 2014年, 8–17ページ.

The Prime Minister and the Minister for the Cabinet Office, Modernising Government, 1999, https://ntouk.wordpress.com/wp-content/uploads/2015/06/modgov.pdf.

ⅲ HM Treasury, the Green Book, 2026, https://assets.publishing.service.gov.uk/media/698dbcd17da91680ad7f4308/The_Green_Book_2026.pdf.

松下美帆(2023)「ウェルビーイング指標の政策活用:海外事例と日本への示唆」一橋大学経済研究所世代間問題研究機構ディ スカッションペーパー第699号.

内山融・小林傭平・田口壮輔・小池孝英「英国におけるエビデンスに基づく政策形成と日本への示唆-エビデンスの「需要」と「供給」に着目した分析」『RIETI Policy Discussion Papers Series』第18巻, 2018年.

Arts Council England, Let’s Create! Strategy 2020-2030, 2020, https://www.artscouncil.org.uk/lets-create/strategy-2020-2030.

 Government of Western Australia Department of Culture and the Arts, Public Value Measurement Framework; Measuring the Quality of the Arts, 2014, https://www.dlgsc.wa.gov.au/docs/default-source/culture-and-the-arts/research-hub/public-value/pvmf-measuring-the-quality-of-the-arts.pdf?sfvrsn=1190125d_2.    

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UNESCO World Heritage Centre, Culture|2030 Indicators, 2019, https://whc.unesco.org/en/culture2030indicators/.

文化庁 (2023)『文化芸術基本計画(第2期)』, https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kondankaito/yushikisyakaigi/02/pdf/94013101_04.pdf

執筆者

作佐部 孝哉

パートナー, PwCコンサルティング合同会社

Email

関谷 泰弘

シニアアソシエイト, PwCコンサルティング合同会社

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