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人口減少、価値観の多様化、そしてデジタル化の波—現代社会の大きなうねりの中で、日本のミュージアムは今、その存在価値を改めて問われています。かつてのように、貴重な「モノ」を収集・保管・展示するだけの場所では、人々の関心をつなぎとめることは難しくなりました。多くの施設が、来館者数の伸び悩み、予算の制約、そして「文化施設は一部の愛好家のためだけの場所ではないか」という無言の問いに直面しているのではないでしょうか。
21世紀に入り、ミュージアムの価値観は「モノ中心」から「ヒト中心」へと大きくシフトしています。文化施設が地域社会にとって不可欠な存在であり続けるためには、これまで接点のなかった人々といかにして関係を築き、多様な住民一人一人にとって価値ある体験を提供できるかが、死活問題となっています。
この極めて重要な経営課題を解決する鍵こそが、「鑑賞者開発(オーディエンスデベロップメント)」です。本稿では、この鑑賞者開発という戦略的アプローチについて、その本質から海外の先行事例、そして日本のミュージアムが明日から実践できる具体的なステップまでを、体系的に解説します。これは単なる集客術の話ではありません。ミュージアムの未来をデザインし、持続可能な運営を実現するための、新たな経営戦略の羅針盤です。
鑑賞者開発とは、一体何でしょうか。アーツ・カウンシル・イングランドの定義によれば、「既存の鑑賞者および潜在的鑑賞者のニーズを満たすべく実施される、芸術団体と鑑賞者の関係の発展に貢献する活動」*1とされています。
「それはマーケティングと同じではないか?」と思われるかもしれません。しかし、両者には決定的な違いがあります。一般的なマーケティングが、主に「来館してくれそうな人」をターゲットに、チケット販売などの収益最大化を目指す活動であるのに対し、鑑賞者開発は、そのスコープをさらに広げます。特に、芸術・文化から疎外されがちな「新たな鑑賞者」、つまり、これまでミュージアムに足を運ぶことのなかった層の参加を積極的に促すという、「文化の民主化」のツールとしての側面を強く持っているのです。
事実、文化庁の令和6年度「文化に関する世論調査」*2によれば、過去1年間に美術鑑賞をした国内の成人は、全体のわずか12.2%に過ぎません。歴史系、自然史系の博物館への来館もそれぞれ8.4%、10.0%という状況ですが、一方で鑑賞していないおよそ9割の人々は、ミュージアムにとって広大な「潜在的鑑賞者」の海とも考えられます。鑑賞者開発は、この未開拓の海へと戦略的に漕ぎ出すための航海術であり、顧客の最大化という経済的側面に加え、社会的包摂という公共的使命を両立させるアプローチなのです。それは、文化施設の社会的信認を高め、組織の持続可能性に貢献する、極めて有効な戦略と言えるでしょう。
鑑賞者開発を成功させるためには、やみくもにイベントを行うのではなく、まず「誰に」「何を」届けるのかを明確にする戦略的な思考が不可欠です。ここでは、その思考の助けとなる2つの代表的なフレームワークをご紹介します。
欧州ミュージアム組織ネットワーク(NEMO)は、鑑賞者開発の役割を以下の3つに整理しています*3。自館の取り組みが、何を目指して実施しているのかを意識することが第一歩です。
多くの施設では、特別展の際など拡張に力を入れがちですが、多様化や深化にもバランスよく取り組むことで、安定的で多様な来館者層を育むことができます。
では、特に多様化や拡張を目指す場合、どうすれば非来館者にアプローチできるのでしょうか。そのヒントを与えてくれるのが、Wigginsが提唱した「MAOモデル」です*4。このモデルは、人々のミュージアムへの来館を 「意欲(Motivation)」「能力(Ability)」「機会(Opportunity)」の3つの要素で分析します(図表1)。
図表1:ミュージアムにおけるMAOモデル*5
ミュージアムへの来館意欲あり |
ミュージアムへの来館意欲なし |
|
機会あり・能力あり |
A. 既存来館者 |
A'. フットボール・ファン(来館しそうにない人) |
機会あり・能力なし |
B. 来館希望者(潜在的来館者) |
B'. 無視された隣人(能力がないため意欲もない) |
機会なし・能力あり |
C. 隣の来館者(潜在的来館者) |
C'. 疲れた旅行者(機会がないため意欲もない) |
機会なし・能力なし |
D. 隣の来館希望者(潜在的来館者) |
D'. 縁遠い人(来館しそうにない人) |
このマトリクスで重要なのは、表中B、C、Dに分類される「潜在的来館者」です。彼らは行きたいという意欲は持ちながらも、何らかの障壁によって来館に至っていません。
鑑賞者開発とは、まさにこの潜在的来館者層が抱える「来ない理由(障壁)」を特定し、それを取り除くための具体的な施策を企画・実行していくプロセスなのです。例えば、B層にはアクセシビリティの改善や初心者向けガイドツアーを、C層には地域メディアやソーシャルメディアを通じた積極的な情報発信が有効でしょう。
鑑賞者開発を積極的に推進している欧米のミュージアムには、共通する成功のプロセスがあります。それは、①現状把握・ターゲット設定 → ②戦略策定 → ③プログラム実施 → ④評価と改善というサイクルです 。ここでは、具体的な事例とともにそのプロセスを見ていきましょう。
科学体験型ミュージアムであるエクスプロラトリアムは、まず来館者調査から始めました。その結果、来館者が「近郊の裕福な白人層」に偏っているという①現状を把握。そこで、サンフランシスコの人口比率に近づけることを目標に、「若年層」「旅行者」「郊外在住者」そして「近隣のメキシコ系米国人」という4つのターゲットを設定しました。
メキシコ系米国人層に向けた②戦略として、入館料が障壁になっていると仮説を立て、③プログラムとして「コミュニティ・ファミリー・パス」を導入。地域の団体を通じてパスを配布し、1枚で8人まで無料入館できるようにしました。さらに、④評価として、来館の3カ月後に電話で追跡調査を行い、プログラムの精緻化に努めています。結果として、このパスだけで年間5,000人以上が来館するなど、明確な成果を上げています。
カリフォルニア・オークランド博物館は、①現状把握として、ミュージアム周辺が低所得者層や有色人種の多い地域である一方、実際の来館者は白人の富裕層が中心という乖離を認識していました。
ターゲットを「半径40km以内の地域住民」と定め、彼らの来館への心理的なハードルを下げることが②戦略の中心となりました。
そのための③プログラムが、金曜日の夜に路上でフードトラックやライブ音楽を楽しむ「Friday Late」です。このイベント参加者のうち、実際に展示室に入るのは15〜20%程度ですが、④評価のための参加者調査では、ミュージアムへの親近感が大幅に向上していることが確認され、当初の目的を達成しています。
この取り組みの最大の成功要因は、鑑賞者開発を組織横断的なプロジェクトとして位置づけている点です。専門部署を設置し、展示、教育、ファンドレイジングなど各部署が連携する体制を構築。さらに、経営陣やスタッフの多様化も図り、組織全体で地域コミュニティと向き合っています。
ロンドン博物館は、まず①来館者を把握し、ロンドン在住者、忙しいビジネスマンなど8つのカテゴリに分類しました。これに基づき②鑑賞者開発戦略を策定するとともに、ターゲットを「アーリーアダプター」に定め、③新しいものに関心が高い層に向けたサービスを展開。アーリーアダプターによるソーシャルメディアでの発信や、口コミによる拡散効果を狙いました。また、④メディア浸透度などを指標としてその成果を評価する取り組みを設けています。さらに、この鑑賞者開発戦略は全職員に共有されるとともに、博物館のウェブサイトでも公開し、ロンドン博物館内の人々にとどまらない幅広い層への浸透を図りました。
さて、日本のミュージアムの現状はどうでしょうか。先進的なイベントを実施している施設は数多く存在します。しかし、2016年の調査*7では、回答したミュージアムの38%が「想定する来館者がない」と回答しており、多くの取り組みがターゲットの明確化を欠いたまま、単発の事業にとどまっているのが実情です。
海外事例との比較から見えてくる、日本のミュージアムが鑑賞者開発を本格導入するための処方箋は、以下の4つのステップに集約されます。
誰が、なぜ、どのように自館を利用しているのか。そして、地域の人口構成やライフスタイルはどうなっているのか。まずは既存の来館者データ分析や、地域統計の確認から始めましょう。非来館者の声を聞くアンケートも極めて有効です。「なぜ来ないのか」にこそ、次の一手のヒントが眠っています。
「全ての人に」というアプローチは、結果的に誰にも響かないメッセージになりがちです。MAOモデルなどを参考に、最もアプローチすべき潜在的来館者層は誰なのか、優先順位を付けましょう。ターゲットを絞ることは、他の層を切り捨てることではありません。明確な成功事例を作ることで、他の層への波及効果が期待できるのです。
ターゲットが抱える来館への障壁を取り除くには、学芸員や事務職員といった垣根を越えた全館的な協力体制が不可欠です。さらに、地域のNPO、大学、企業、商店街など、ターゲット層と接点を持つ外部パートナーとの連携は、新たな層へアプローチする極めて効率的な方法です。彼らとともに、ターゲットの心に響くプログラムを共創しましょう。
プログラムを実施したら、必ずその効果を測定・評価することが重要です。来館者数だけでなく、参加者の満足度、属性の変化、ソーシャルメディアでの反響など、多角的な指標で成果を可視化します。そして、その結果から得られた学びを次の企画に生かしていく―このPDCAサイクルを粘り強く回し続けることが、鑑賞者開発を組織の血肉としていく唯一の道です。
鑑賞者開発は、目先の来館者数を増やすための対症療法ではありません。地域社会との対話を通じて、ミュージアムの社会的価値を再定義し、多様な人々と共生していくための、長期的かつ本質的な経営戦略です。それは、ミュージアムに関心のない層による無関心という「冬の時代」を乗り越え、社会からの信認と共感を得て、持続可能な未来を築くための、最も確かな投資と言えるでしょう。
しかし、その導入には、データ分析、戦略策定、組織改革、そして地域連携といった高度な専門性が求められることも事実です。もし、自館が「何から手をつければいいか分からない」「全館的な取り組みの進め方に悩んでいる」とお考えの場合は、ぜひ一度、私たちにご相談ください。国内外の豊富な知見と実践的なノウハウで、皆さんのミュージアムが未来の扉を開くための最適なロードマップを、ともにデザインします。
引用・参考文献
*1 :Arts Council England, “Audience development and marketing, and Grants for the Arts,” https://www.artscouncil.org.uk/sites/default/files/download-file/Audience_development_and_marketing_and_Grants_for_the_Arts_June2017.docx, 2017.
*2:文化庁『文化に関する世論調査 報告書』https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/pdf/94238501_01.pdf, 2025.
*3:Bollo, A., Da Milano, C, Gariboldi, A., & Torch, C., Final Report Study on Audience Development - How to place audiences at the centre of cultural organisations, http://engageaudiences.eu/files/2017/04/NC0116644ENN_002.pdf, 2017.
*4:Wiggins, J., “Motivation, Ability and Opportunity to Participate: A Reconceptualization of the RAND Model of Audience Development,” International Journal of Arts Management, 7(1), pp. 22-33, 2004.
*5::関谷泰弘「東京国立博物館における若者向けミュージアム・イベント「博物館で野外シネマ」を事例とした鑑賞者開発の研究」『文化経済学』12 巻 2 号, pp. 62–75, 2015.
*6 :関谷泰弘「ミュージアムにおける来館者開発 ―欧米の事例と日本への可能性」, 『博物館研究』, 54巻10号, pp.2-5, 2019.
*7:関谷泰弘「英米との比較による我が国ミュージアムにおける来館者開発の導入に向けた基礎研究」『日本ミュージアム・マネージメント学会紀要』21巻 1 号, pp.17–27, 2017.
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