登壇者
Anu Bradford(アニュ ブラッドフォード)氏
PwC Japanグループ 顧問
コロンビア大学ロースクール 教授
ピヴェット 久美子氏
PwC Japan合同会社
ディレクター
モデレーター
山本 直樹氏
PwCコンサルティング合同会社
パートナー
米国トランプ政権は2025年8月、EUのデジタル規制が米国のテック企業を不当に標的にしているとして、加盟国への追加関税を警告しました。国際秩序が揺らぐ中、EU内部でも対応に温度差が生まれるなど、状況は複雑さを増しています。今後、欧州のデジタル規制はどのような方向に向かうのでしょうか。「ブリュッセル効果」「デジタル帝国」の著者であり、PwC Japanグループ顧問を務めるアニュ ブラッドフォードとともに、地政学・経済安全保障の観点から欧州規制の現在地を読み解きます。
(左から)山本 直樹氏、ピヴェット 久美子氏
山本:
本稿では複雑化する米欧関係の中で企業が直面する「欧州のデジタル規制をどのように理解し、備えていくか」を主軸に議論を進めます。EUの規制は、地政学や経済安全保障、産業政策など多様な要因が背景にあり、EU域内だけでなく域外企業にも大きな影響を及ぼします。
その影響力を語る上で不可欠なのが「ブリュッセル効果」です。まずは、この重要な概念について、ブラッドフォードさんにお聞きします。
ブラッドフォード:
EUは巨大な消費市場と高い基準を策定できる規制機関を備えており、自らの規制をグローバル市場全体に波及させる力を擁しています。多国籍企業はEU市場なしには事業が成り立たないため、環境保護、競争法、データ保護など多くの分野でEUの規則に従わなければなりません。そして複数の規制に対応するコストを避けるため、そのEU基準を自社のグローバル拠点全体に適用することがよくあります。これが「事実上のブリュッセル効果」です。
さらに、外国がEUの規制を模倣し自国に取り入れる「法律上のブリュッセル効果」もあります。実際、ブラジル、日本、韓国、南アフリカを含む100カ国以上がEU一般データ保護規則(GDPR)を模倣しています。ただし現在、EUの規制自律性は外圧と内部要因の双方から揺らいでおり、ブリュッセル効果が従来ほど強固ではなくなる可能性も指摘されています。
山本:
ブリュッセル効果は、2018年のGDPR施行で一気に広く認識されました。米国の大手テック企業でさえEU基準に従わざるを得ず、その影響力を強く印象づけました。
しかし現在、その支配的な構図に変化が生まれていると言われています。ピヴェットさん、この点について、地政学と経済安全保障の視点から現在の動向を説明してください。
ピヴェット:
最も大きな変化は、2025年1月に発足したトランプ第二期政権です。「世界各国が米国を搾取してきた」と主張し、米国第一主義の下で各国に関税を賦課しています。
この関税交渉には三つの目的があります。それは「米国製造業の米国内回帰」「税収の確保」「外交上の交渉カードとしての活用」です。EUのデジタル規制に影響するのは、三つ目の「外交上の交渉カードとしての活用」です。
米国トランプ第2次政権がもたらす変化
このアプローチは他地域にも向けられていますが、EUに対しては特に「デジタル分野」で強く用いられています。2025年8月に米欧は貿易合意に至りましたが、それ以前から米国はGDPRを含むEUの規制が米国テック企業を不当に狙っていると批判していました。また一部のEU加盟国が導入しているデジタルサービス税についても米国は強く反発し、「内国歳入法899条」を根拠とした報復課税や関税措置を示唆した経緯があります。
このように米国はあらゆる手段でEUにデジタル規制の見直しを迫っています。これに対しマロシュ・シェフチョヴィッチ欧州委員は、「規制の自律性は、EUにとって不可欠である」と発言しています。ここでブラッドフォードさんにお聞きします。こうした外圧はブリュッセル効果を弱める要因となり得るのでしょうか。
ブラッドフォード:
EUは現在、外部と内部の双方からデジタル規制への見直し圧力に直面しています。外部では、トランプ政権がデジタル法の改正を強く求め続けています。2025年8月(※)の米欧貿易合意ではEUが規制変更を約束した事実はありませんが、米国は一貫して圧力をかけ続けています。
※ https://www.jetro.go.jp/biznews/2025/08/cd95202b72da8b02.html
内部からの圧力も無視できません。欧州中央銀行の元総裁マリオ・ドラギ氏が2024年にまとめた「ドラギレポート」では、「規制負担が重すぎることで、欧州のテクノロジー分野の競争力が損なわれている」と警鐘を鳴らしました。
この提言をきっかけに、イノベーション促進のためには規制をどこまで緩和すべきかがEU内で大きな論点となっています。ただし、どこまでデジタル規制を見直すべきかについては、EU内部で意見が割れたままです。
トランプ大統領はEUについて「米国を食い物にするために設立された」と主張し、一方でドラギ氏は「欧州は抜本的に変わらなければならない」と明言しています。外と内の双方からEUの規制のあり方が問われている状況です。
生産性のデータを比較しても、欧州の危機感は理解できます。1995年以降、米国の生産性は大きく伸びていますが、テクノロジー分野を除くと米欧の差は縮まります。こうした背景から、EUでは「現在のデジタル規制が競争力の足かせになっているのではないか」という懸念が一段と強まっているのです。
ピヴェット:
ブラッドフォードさんのお話にあったとおり、ブリュッセル効果は外圧と内部議論の双方から揺さぶられています。では、なぜEUはこうした圧力に対して強く出られないのかを、私の方から説明します。
地政学・経済安全保障の視点から見ると、「自律性」と「不可欠性」という二つの重要なコンセプトがあります。
まず自律性です。エネルギー面ではロシア・ウクライナ紛争を機に、ロシア依存からの脱却を図りました。しかし、結果として米国への依存度が高まりました。安全保障面でも北大西洋条約機構(NATO)を通じて米国に大きく依存しています。つまりEUは、自律性の観点から米国に対してレバレッジを効かせにくい構造にあります。
次に不可欠性です。米国は巨大な市場と成長性を交渉のレバレッジとして使えます。一方、EUは米国に対して同等の不可欠性を示せず、主導権を握りにくい状況にあります。
この構図は貿易交渉にも表れています。2025年8月の米欧合意にはデジタル規制が盛り込まれませんでした。しかし、その後の鉄鋼・アルミ関税交渉では、米国のハワード・ラトニック商務長官が「デジタル規制の緩和が関税交渉の条件だ」と発言しました。EUにとって厳しい局面が続いていることは明らかであり、経済安全保障の観点からも、この状況をどのように打開するかが大きな課題になっています。
PwC Japan合同会社 ディレクター ピヴェット 久美子氏
山本:
ここまで、欧州の規制を取り巻く外圧と内部要因について議論してきました。この流れの中で、今後さらに重要性を増すのが人工知能(AI)規制です。まずは、米国・中国・EUがAIにどう向き合っているのか。その特徴について、ブラッドフォードさんに解説をお願いします。
ブラッドフォード:
米国、中国、EUはそれぞれ異なる規制モデルを持ち、自らのモデルを輸出することで影響圏を拡大しています。
米国は市場主導型のアプローチです。自由市場、自由なインターネット、言論の自由、イノベーションへのインセンティブを優先し、AIのリスクよりも便益を重視しています。AI開発者の自主規制を信頼しており、政府によるガードレールはほとんどありません。
中国は国家主導型モデルです。AI超大国を目指して広範な支援を国家が行う一方、監視や検閲といった政治的統制の手段としてもAIを活用しています。
EUは権利主導型モデルです。個人の基本的権利の保護、民主的構造の維持、デジタル変革の利益の公正な分配に焦点を当てています。人間中心で倫理的なAI開発のためには政府による規制が必要であるという立場です。
ピヴェット:
今のお話のとおり、主要国はそれぞれ異なる価値観や国家と企業の距離感を前提に規制モデルを構築しています。この「国家と企業の距離」という点で注目すべきなのが、国家主義的な経済運営の台頭です。2025年には米国で重要産業・重要企業の株式を政府が直接取得したり、民間投資に政府が介入したりする事例が相次ぎました。
デジタルエンパイアの世界の変化
中国でも同様です。特にAIや半導体分野では第三弾となる大型ファンドが立ち上がり、国家主導で産業育成や規制の緩和・形成が進んでいます。西側諸国を含め、国家主導による競争力強化の流れは、止まる気配がありません。
こうした動きについて、以前ブラッドフォードさんと議論した際に話題になったのが「民主主義国家の制約」です。民主主義国家では選挙民の意向を反映した政権運営が求められるため、こうした国家主義的な動きを取りにくいという構造的な制約があります。その上で重要になるのが、「国家主義的な介入が世界的に広がる中、EUはこれまで築いてきたブリュッセル効果を維持し、デジタル規制の主導権を保ち続けられるのか」という問いです。ブラッドフォードさん、この点について見解をお聞かせください。
ブラッドフォード:
EUが外部や内部からの圧力に押され、ブリュッセル効果を弱めてしまえば、国際的な規制リーダーとしての影響力を失いかねません。現在、テクノロジー競争は国家安全保障や経済安全保障と結びつき、各国がテクノロジーを戦略的な道具として扱う「地政学化」が進んでいます。この環境下でEUは国家安全保障の権限を加盟国に委ねているため、統一的な戦略を取りにくいという弱みがあります。
本来、日本のようなテクノロジー民主主義国家と連携できれば、EUと米国は中国の影響力拡大に対抗しやすくなったはずです。しかし、現在の米国は国際協調から距離を置いており、その結果、中国の存在感がさらに強まる可能性があります。
PwCコンサルティング合同会社 パートナー 山本 直樹氏
山本:
ここまで、ブリュッセル効果の揺らぎからAI規制を巡る各国のアプローチ、そして国家主義的な経済運営の広がりまで議論してきました。では、日本企業はこの変化の激しい国際環境の中でどのようにリスクを捉え、備えを進めるべきでしょうか。
ブラッドフォード:
日本企業は、技術、規制、地政学的要素など、事業環境を形成するあらゆる要素を包括的に理解する必要があります。生産やサービス提供の全ての段階において、地政学・規制上のリスクを見越して評価することが重要です。
不確実性に備えるためには、製品や市場、サプライチェーンを可能な限り多様化し、新しい取引先の選定でも戦略性が求められます。また、政府の外交努力を補完する意味でも、国内外の規制当局と直接コミュニケーションを取ることが必要です。こうした取り組みは、自社の利益を守るだけでなく、政治や規制の変化に関する質の高い情報を早期に得ることにもつながります。
ピヴェット:
これまでの議論のとおり、国家が企業活動に直接影響を及ぼす場面は今後さらに増えていくと考えています。同時に、ブラッドフォードさんが指摘したように、企業側にも自国や進出先の政府に対して主体的に働きかける姿勢が求められます。
国際的な規制や制度は今後も増加の局面がしばらく続くとみられています。そうした状況を前提にすると、各国がどのような戦略目的を持ち、何を目指して政策を展開しているのかを読み解くことが重要なのです。
また、個々の規制がどれほどの戦略的意味を持ち、一過性なのか、それとも将来の標準になり得るのかを見極め、自社の事業戦略に反映することも重要です。こうした判断をしていくためにも、企業には経済インテリジェンスの強化が求められていると強く感じています。
山本:
地政学と規制が複雑に絡み合う時代に、企業が主体的に情報を捉え、経済インテリジェンスを高めていく必要性を改めて確認できました。本日はありがとうございました。
PwCは、アドバイザリー業務を通じて培ったDXに関する知見・経験と、監査をはじめとした保証業務を通じて培ったコーポレートガバナンスやリスクマネジメント、内部統制に関する知見・経験を活かして、デジタルガバナンスの整備および運用を包括的に支援します。
日本企業がDXを推進し、ビジネスを持続的に成長させていくためには、デジタル時代において必要とされる信頼、すなわち「デジタルトラスト」の構築が求められています。PwCは、サイバーセキュリティ、プライバシー、データの安全性、信頼性などさまざまな観点から、クライアントのデジタルトラスト構築を支援します。
私たちはテクノロジーとビジネスの専門知見で、AI活用を前提としたクライアントの成長と変革を支援します。