デジタルアイデンティティ・ウォレットが拓く未来：ビジネス変革と新たな価値創造（前編）

1. はじめに：デジタルアイデンティティ・ウォレットとは

現代社会は、オンラインでのサービス利用や取引が急速に増加するデジタル化の波に乗り、ショッピング、銀行取引、医療サービス、行政手続きなど、あらゆる活動がデジタルプラットフォームを介して行われるようになりました。同時に、個人情報の安全な管理と効率的な本人確認の必要性に関する議論も進んできており、新たにデジタルアイデンティティ・ウォレット（以下、DIW）という仕組みの議論が進んでいます。

本稿では、このDIWについてご紹介します。

DIWの基本概念と役割

DIWは、個人のデジタルアイデンティティ文書をユーザ自身の管理下にあるデバイスやサーバーに安全に保存・管理し利用するための電子的なツールです。これには、名前、住所、運転免許証、パスポート、健康保険証、クレジットカード情報などの個人情報が含まれます。DIWの本質的な役割は、「個人のアイデンティティ情報を格納し、外部提示が必要なタイミングに応じて、格納した場所から提供する」ことにあります。

これにより、これまで資格など自分を表す情報を証明するために紙の証明書を取り寄せたり、財布にマイナンバーカードや免許証入れて持ち運び、それを取り出して行っていた本人確認などの手続きが、スマートフォンに格納したDIWを通じて電子的に処理できるようになります。このDIWの利用により、個人情報は安全に保管され、必要な際に迅速かつ確実に提示できるため、手続きが大幅に簡素化されます。例えば、銀行取引の際や医療機関の受付においても、スマートフォンを利用することで即座に本人確認が完了し、ユーザのストレスを軽減します。

なお、現在流通している電子決済管理アプリケーションをウォレットと称することがありますが、そのウォレットとは目的、用途が異なるものです。

Verifiable Digital Credentialsの基礎

DIWの思想の基盤となるのは、過去に得た資格や経歴を、いつでもどこでも「本物」と証明できることにあります。

これを実現する一つの技術として「Verifiable Digital Credentials：VC」が生まれました。VCは、発行者（Issuer）、保持者（Holder）、検証者（Verifier）の3つの主体間で流通するもので、発行者から利用者、利用者から検証者の順でデータが連携されます。このモデルをIHVモデルといいます。（図表1左側）

図表1：IHVモデルとフェデレーションモデル

IHVモデルでは、データ検証技術を用いることで、「データの真正性」「所有の証明」が実現します。検証者は、資格情報の発行者から直接ではなく、資格情報の登録サーバーを参照することで資格情報の真正性を検証できます。
また個人情報を含む資格情報の中から、用途に応じて必要な情報だけを選択的に開示する「選択的開示」が可能です。

なお、ある時点の資格や経歴証明を実現する従来技術としては、OpenID Connectという技術があります。こちらは、ユーザの同意を得た上で、IdP（ID管理者）とサービスプロバイダーが直接データを連携します。
このモデルをフェデレーションモデルと言います。
IHVモデルは、ユーザがDIWに保管した自身の資格情報を直接かつ選択的に開示します。これにより、情報の真正性と所有権を確保しつつ、過去に得た資格や経歴を証明することが可能となりました。

2. ビジネスにもたらす多角的なメリット

DIWの導入は、企業や政府機関、そして個人に多岐にわたるメリットをもたらす可能性があります。これらのメリットは、単なる効率化に留まらず、ビジネスモデルの変革や新たな価値創造の基盤となり得ます。

顧客体験（CX）の向上

スマートフォンにDIWをインストールすることで、複数のIDカードや書類を持ち歩く必要がなくなり、必要な時にすぐに提示できるようになります。これにより、旅行、銀行取引、医療機関での受付など、さまざまな場面で手続きがスムーズに行え、ユーザのストレスを軽減します。これら顧客体験は従来の物理的な紙やIDカードを使用した顧客体験に近いもので受け入れやすく、さらに、異なるプラットフォーム間でも手続きを完了できれば、時間と労力が節約されます。このことは、新規顧客の獲得やブランドロイヤリティの向上に寄与します。

セキュリティの向上

デジタルアイデンティティ書類は狙われやすく、紛失、盗用、偽造などのリスクがあります。DIWは、高度な暗号化技術やデジタル署名技術を利用することで、これらのリスクを軽減します。従来の画像解析型本人確認（免許証画像提出や自撮り写真など）は偽装リスクの増加に伴い廃止されつつあり、DIWは照合型による本人確認方法を提供しています。これにより、企業はより信頼性の高い本人確認プロセスを構築し、不正行為による損失リスクを低減できます。

コスト削減効果と経済的メリット

物理的なIDカードの製造や配送、管理には多大なコストがかかりますが、DIWの導入によりこのコストを軽減できます。企業や政府機関は、デジタルIDの導入により、製造費用や郵送費用を削減できるため、経済的なメリットを享受できます。

DIWは単に個別のメリットをもたらすだけでなく、セキュリティの向上、CXの改善、そしてコスト削減効果が相互に作用し、ビジネス全体の効率性と競争力を高める連鎖的な効果が期待できます。まず、DIWによる高度なセキュリティは、不正アクセスやデータ漏えいを防ぎ、企業が安心してデジタルサービスを展開できる信頼性の高い基盤を提供します。この安全な環境が整うことで、ユーザは安心してサービスを利用できます。

次に、CXの向上は、スムーズでシームレスな手続きが可能となることで実現されます。これにより、顧客満足度が高まり、リピート率やLTV（顧客生涯価値）が改善されます。そして最終的に、デジタル化によって削減された郵送費や人件費といったコストによって得たリソースを、さらなるサービス改善や顧客体験向上に再投資することが可能となり、長期的な収益性の向上に貢献します。このようにして、セキュリティ、顧客体験の向上、およびコスト削減が相互に連携し、持続的な成長と効率性を備えたビジネスを実現します。

3. 国内外の導入事例と普及の現状

DIWは、世界中でその導入と普及が進んでおり、特に政府や大手テクノロジー企業がその推進に大きな役割を果たしています。

日本の取り組み

日本政府はマイナンバーカードを「デジタル社会のパスポート」と位置づけ、その活用拡大を目指しています。既にスマートフォンを利用したマイナンバーカードのDIWアプリケーションが一部リリースされています。これにより、マイナポータルとの連携やコンビニで住民票の写しや印鑑登録証明書などを取得できるサービスが利用可能です。将来的には、マイナ保険証としての利用や、民間サービスでの本人確認、年齢確認、住所確認などにも展開されるなど、行政手続きや公共サービスのデジタル化の進行が期待されます。
また、民間でも初期的な取り組みが活発に行われており、今後の普及が期待できます。

海外の先進事例：EU、アメリカなど

海外では、DIWの導入と普及において先進的な取り組みが見られます。欧州連合（EU）は、相手を識別し、認証、および信頼関係を確立した上でサービスを提供するためのeIDAS（Electronic Identification and Trust Services Regulation：電子取引に関する欧州連合規則）と呼ばれる規則を導入し、加盟国間でのデジタルIDの相互運用性の確保を試みています。2026年までに、全ての加盟国で「欧州デジタルIDウォレット（EUDIW）」の提供と、公的および一部民間サービスでの利用が義務付けられます。これはEU域内のデータ確保を目的としています。
また、米国では従来の運転免許証のDIW技術を活用した電子化によって、金融機関、医療提供者、政府サービスなどでより正確な身元確認、CX向上、セキュリティ強化が可能となることを期待したモバイル運転免許証（mDL）の導入が進展しており、空港保安検査場での本人確認などの受け入れが進んでいます。

標準化の動向

EUはeIDAS規則により、域内の相互接続を実現するため標準化を進めています。また、この動きの中でビッグテック企業もその潮流に乗っています。携帯電話のOSにはDIWの搭載を加速させており、DIWの世界的な標準化と合致しています。
これらの動きにより、国際的にDIW普及と標準化が進むと考えられます。
これらの動向を鑑みると、企業はグローバルな標準化の動向と、日本政府が推進するマイナンバーカードを中心とした国内エコシステムの双方を考慮する必要があります。国際的な相互運用性を見据えつつ、国内の法規制やインフラに合わせたアプローチが求められるでしょう。

これまでに述べた国内外の導入事例と普及の現状を踏まえると、DIWの導入が多くのメリットをもたらす可能性を秘めていることがわかります。後編では、その多様なユースケースと新規事業創出の可能性について詳しく探っていきます。