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激動するAI時代において伝統芸能と最先端ビジネスの世界が交わる時、そこにはどのような共通言語が生まれるのでしょうか。江戸時代から続く歌舞伎の家に生まれ、舞台に立ち続ける九代目坂東彦三郎氏と、企業変革を支援するPwCコンサルティング ディレクターの速水桃子が、「伝統と革新が共鳴する未来」、異なる世界に見えて実は共通する型と革新について語り合いました。
※対談者の肩書、所属法人などは掲載当時のものです。本文中敬称略。
左から坂東彦三郎氏、速水桃子
速水:
歌舞伎を題材にした映画のヒットをきっかけに、劇場に足を運ぶ人が増えていると伺いました。私は歌舞伎を愛好するファンとして、また同時にエンタテイメント業界を支援する立場として、伝統芸能がスクリーンを通じて再発見されるという興味深いことが起きているように感じています。舞台の内側にいる方々は、どういう感覚を持たれていますか。
坂東:
映画を通じて初めて歌舞伎に興味を持ってくださった方が、その後「本物を観たい」と劇場に足を運んでくださることは、大変ありがたいことです。ただ、舞台に立つ側としては、いわゆる「ブーム」と呼ばれるような現象の実感はないというのが正直なところです。
映画の影響よりもむしろ、新型コロナウイルスの流行前後のインバウンド需要の変化を強く感じています。また、コロナ禍で劇場へお出かけくださる機会が減り、明けてからも観劇の習慣が戻らないこと。加えて、歌舞伎座の建て替え時期に劇場から足が遠のいた方もいらっしゃいます。ここ数年で、観客数全体の増減というより客層が大きく変化していると感じます。映画がきっかけで観劇したお客さまが、継続して足を運んでくださるかどうか、個人的には疑問に思っています。
速水:
歌舞伎を題材にしているとはいえ、映画と舞台ではジャンルが大きく異なるということでしょうか。
坂東:
そうですね。まず、平面と立体の違いがありますよね。映画は演目の一場面を美しく切り取って見せることができますが、歌舞伎の出し物は5分で完結するものではありません。例えば『菅原伝授手習鑑』など歌舞伎三大狂言と呼ばれる作品群には、30分、1時間半、2時間といった重厚な構成があります。歌舞伎は、クローズアップの美しさだけを切り取るものではなく、本来は積み重ねがあってこそ成り立つものです。そうした全体像がお客さまに伝わっていなければ、一過性のブームで終わってしまうだろうと感じています。
速水:
映画で扱われた「歌舞伎」は、私の知っている歌舞伎とは少し違うものでした。ただ、歌舞伎には常に新しいものを取り入れてきた歴史があります。例えば現代アニメーションや漫画をベースにした歌舞伎。演目を歌舞伎として観ることができないと、「キャラクターのイメージと違う」となる可能性もありますよね。男性が女性を演じることこそが、現代においてはまさに歌舞伎の本質であるにもかかわらず、です。
坂東:
もちろんです。たとえ80代の男性であっても、ひとたび女形として舞台に立てば、若く美しい女性を演じることもできます。歌舞伎は、技術と芸が重なり合って成り立つ総合芸術です。映画をきっかけに歌舞伎に興味を持って劇場へ足を運んでくださった方が、若い女形と熟練の女形の対比を楽しんでくださるかどうか。また、物語の時代背景まで含めて楽しんでくださるかどうか。そこが重要だと感じています。
速水:
映画によって初めて歌舞伎を知って劇場に足を運び、400年前と同じ演目を生身の役者が演じているのを観る。その体験自体が非常にダイナミックなものになるのではないでしょうか。
坂東彦三郎氏
速水:
歌舞伎は、技術と芸、名跡の継承が大きな特徴だと思います。襲名の仕組みや、代々の継承のあり方について教えていただけますか。
坂東:
江戸以前は、襲名は必ずしも血縁ではなく、実力者が名跡を継いでいたのですが、明治以降は血縁が増えました。「伝統」と言われますが、歌舞伎の初期は伝統ではなく「最新」でした。「つなぐ」よりも「つくる」芸能だったんですよ。
芝居は、もともと芝に居座って見物するところから始まり、やがて屋根がかかって小屋となり、さらに劇場へと発展してきました。時代の中で形を変えながら、その時々の歴史が積み重なって「型」として残り、伝承されてきました。そこに難しさもあります。時代に合わせて壊すことがあってもよいと思いますが、400年ほどの間に完成されてしまった側面もあるのです。
速水:
歌舞伎の「型」は、数百年に渡って受け継がれ、演じ手の解釈が加わりながら進化し続けてきたものなのですね。この構造は、私たちコンサルタントが用いる「フレームワーク」に通じるものを感じます。
坂東:
型は確かに形式ですが、形式そのものが目的ではなく、型はお客さまの心に作品を届けるための「入り口」でしかありません。型を学び、身体に染み込ませることで、自分の個性や解釈を立ち上げていく。そこから役者にとっての差別化が始まります。 「型破り」と「形無し」の話がよくされますが、型を習得しているからこそ型破りが成り立つのです。
速水:
コンサルティングのプロジェクトも似ているように感じます。フレームワークは価値創出や課題解決のための集合知であり、それを踏まえることは先人たちから学ぶということでもあります。まずは基本を身に付け、その上で独自の解釈や戦略を見いだすことが、価値を出し、持続的に選ばれることにつながるのだと実感しています。
坂東:
歌舞伎はユネスコ無形文化遺産に登録され、日本の文化を象徴する芸能として国際的にも評価されています。そのため、壊すのではなく「つなぐ」ことが、現代の私たちに課された役割でもあります。ただし、私たちの世代にはどうしても現代感覚が入り込んでしまいます。型を継承しつつ、破るところは破る。そのバランスが難しいと感じています。
個性は必要ですが、作品という「道」から外れないことが大前提です。右手を上げろと言われたら右手を上げる。ただし、その上げ方には幾通りもの表現があり、そこに個性が出ます。左手を上げるのは個性ではなく、逸脱です。歌舞伎では、主役が急きょ休演になっても、誰かが代役に入り、芝居全体は大きく変えずに成立させるということがありますが、興行を止めないという責任があるからこそ、日頃から複数の役を稽古し、芝居全体に対する知識・技を蓄積しておくのです。
速水:
私たちの仕事も同じで、右手を上げるべきところでただ個性を出すために左手を上げると、結果的に良い仕事になりづらくなります。守らなければいけないことはあるということですね。
坂東:
私は、生まれ落ちた瞬間から歌舞伎の家にいます。幼いころ、どこの家庭も父親はみな白塗りをしているのだと思っていたくらいです。家では着物が当たり前で、歩き方や声も、身体に染み込んでいます。母も親戚も全員で歌舞伎を支えている環境です。この共同体的な支え合いが、歌舞伎そのものだとも言えます。型と約束事を共有し、逸脱せずに個性を出す。その積み重ねが、伝統を現在につなげているのかもしれません。
速水桃子
速水:
歌舞伎役者には、歌舞伎役者ならではの積み重ねがあって、その根本には、プロフェッショナリズムの徹底があるのだと感じました。
坂東:
型をなぞるだけならAIにもできます。しかし、そこに体温を与え、観客の心を揺さぶるのは人間だけの営みです。芸は合理性を超えたところに成立します。
速水:
生成AIが文章を紡ぎ、画像を描き、意思決定を支える時代に、人間にしかできない営みとは何なのか、という問いがあります。私はそれを「アート」だと考えます。人間に残された特権がアートでありエンタテイメントを楽しむ、ということなのではないかと考えています。
坂東:
歌舞伎は役者が育つと同時に、お客さまも育つ芸術です。ある家の系譜を祖父の代から孫の代まで見続け、同じ役を代々どう演じるか楽しむ。多様な演目を観て「目」を養う。そうしたお客さまが以前は多くいらしたのですが、高齢化や観劇習慣の断絶により、一気に減ってしまいました。その結果、古典の演目を観ていただく機会まで減ってきてしまっています。若手が古典を演じる機会を失い、古典を担う層が痩せてしまうことを危惧しています。
一方で、お客さまの生活も時代とともに変わっています。昔は東北公演の際、義経が登場するだけで大変盛り上がったという話を聞いています。東北地方で源義経は、逃れてきた英雄という文脈が共有されていたからです。しかし今はその文脈すら共有されていません。「当たり前だった教養」を、現代のお客さまとどのようにして共有するかという課題もあります。
速水:
そのためにも、イヤホンガイドやタブレット字幕といった補助的な顧客インターフェースは積極的に活用すべきだと思います。昔は必要なかったものでしょうが、今は観客にとって欠かせない手助けです。外国語話者向けの同時解説もあったらいいなと思うのですが、時代に応じて更新していく必要がありそうですね。
さらに、リアルな口頭解説や事前に伝える仕組みも有効だと考えます。現代は読む文化が弱まりつつあり、文字を読むことを負担に感じる方も少なくありません。技術がさらに発達すれば、各地にいる出演者を仮想的に一つの場所に合成して上演する、といった超・超歌舞伎的な試みも可能になるでしょう。そうなれば、世界中どこからでも興行が成り立ちます。
坂東:
古典の面白さを丁寧に翻訳して届けることが、次の世代の役者と観客を同時に育て、歌舞伎の本質を未来へつなぐ道なのかもしれません。仮想合成や遠隔上演の可能性は面白いですが、芝居は本来「生」であることに価値があるので、そこに必要以上に頼るべきではないとも思います。映像は編集で強調できますが、舞台はその瞬間の呼吸が価値であると思うのです。
歌舞伎を次世代へつなげていくためには投資も必要です。ただ、その価値を理解する世代間のギャップも大きい。コロナ期に動画チャンネルを立ち上げようとした際、諸先輩方に一から説明を始めなければならず、利点を伝えるだけでも議論が分散して大変でした。
速水:
伝統を次世代に継承する営みは、まさに「越境」の連続だと思います。さらに海外への展開においても、AIやテクノロジーの力が重要になっています。 日本発のコンテンツとして世界を席巻しているアニメと比較すると、歌舞伎は身体を伴った「生身の芸能」です。アニメが複製と流通で世界中に広がっていくのに対し、歌舞伎は一回限りのライブ性に価値があります。その二つは相反するのではなく、日本のコンテンツの多様性を体現している。だからこそ、両者を戦略的に位置付けることで、日本発コンテンツの国際展開はさらに広がると考えます。
坂東:
海外公演では言葉の壁が大きな課題ですが、字幕や自動翻訳の技術がその障壁を取り払いつつあります。ただ、例えば「切腹という美学」は、海外では感情的に受け入れられないことが多い。説明を重ねても埋まらない価値観の差があります。派手な立ち回りだけを輸出しても芝居の本質には届きにくいというジレンマがあります。
歌舞伎の普及という点では海外展開も重要ですが、並行して国内の土台も固めなければならないと考えています。まず国内で美学と文脈を守り、お客さまの「歌舞伎を観る目」を育てることが先決ではないかとも感じているところです。
生の舞台は、お客さまが自由に視線を選べる点が魅力です。せりふを発している役者だけでなく、後方の囃子方や語り手、衣裳やかつら、小道具や大道具、あるいは客席を眺めても構いません。学校や地域へ出向いたり、落語や演芸と協働したりして、生で歌舞伎を観てもらう機会をつくることも、われわれにとっては「劇場からの越境」かもしれません。
一方で、お客さまにとって観劇は「日常からの越境体験」です。チケットを手にした日から、前日の準備や当日の装い、終演後の余韻を含む全てが「歌舞伎を観る」ことなのだろうと思います。テレビや映画で歌舞伎を観ていただく時は、この「越境の手続き」が欠けるため、特別感が薄れるのかもしれません。
速水:
越境の相互作用ですね。彦三郎さんがお考えになる「歌舞伎」とは何でしょう。
坂東:
「何が歌舞伎か」についての厳密な線引きは難しいですが、約束ごと(型・音曲・詞章・衣裳・かつら・化粧)、場(器)の力、そして役者の身体性が交わるところに歌舞伎が立ち上がるのだと思います。役者は媒体を変えても身体に染みた歌舞伎の文法から完全には自由になれません。それをどう調合するかが、現代の場づくりと発信の課題なのだろうと考えます。
速水:
場づくりと発信は、AIやデジタル技術が得意とする領域です。しかし、それは芸そのものを置き換えるものではありません。むしろ新しい鑑賞体験を通じて、歌舞伎の価値をより多様な観客に届けるための触媒=メディアとして、伝統を継ぐための道具になり得るものです。
歌舞伎は、新しい技術の力を借りれば、美学と文脈を守りながらもこれまで以上に広く、そして深く世界へ届けることができるはずです。その未来像は、伝統芸能の存続にとどまらず、日本発のコンテンツ全体の可能性を押し広げるものだと確信しました。
今日の対話を通じて、伝統と革新が実は同じ地平で響き合っていることを改めて実感しました。現代において大切なことは、「生」の本質を見失わないこと。そして、適切なテクノロジーの力を借りながら、スピード感をもって発展させることなのだと感じました。
本日は貴重なお話をありがとうございました。
九代目 坂東彦三郎(ばんどう・ひこさぶろう):
歌舞伎俳優。坂東楽善の長男。1981年12月国立劇場『寺子屋』の寺子で坂東輝郷の名で初お目見得。82年5月歌舞伎座『淀君情史』の亀丸で五代目坂東亀三郎を名のり初舞台。2017年5月歌舞伎座『石切梶原』の梶原平三などで九代目坂東彦三郎を襲名。音羽屋。祖父は人間国宝の十七世市村羽左衛門。
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